突然製作発表された『ヨコエビ ガイドブック』(以下、有山2022)は、もはやヨコエビをマイナー分類群呼ばわりするのを躊躇わせるレベルの売れ行きであったようで、楽天では「発売日」の5月23日に動物学部門で1位を獲得、楽天・Amazonともに発売翌日には「在庫切れ」の文字が躍り、空前の品薄にネット上がざわつきました。
Amaz〇nの業者についてはそもそも仕入れを行っていなかった説、また初版が相当弱気な部数だったせいもありましょうが、発売1週間程度で第二版決定というスピード重版をキメており、今後も伝説を作り続けていく気はしています。
これは初版です。 |
こちら第二版。 |
ヨコエビという分類群には、1冊の本として成立する一般向けの日本語のテキストは恐らく存在せず、また日本産79科のキーが掲載された資料などというものはいかなる言語でも用意されておらず、そういった敷居の低さとコアな情報を両方摂取できる資料に注目が集まるのは無理からぬことと思います。それにしても 4,500円(税別)という、一般向けの生物学の書籍として高額であるにも関わらずこれだけ売れたというのは、そろそろヨコエビの種多様性・量的優位性にヒトの関心が追いついてきたという証左ではなかろうか、とオタク特有の早口でまくし立てたくなってきます。
とりあえず、有山 (2022) がどのくらいスゴイのか独断と偏見でまとめてみました。
改めて数えてみると 菊池 (1986) が扱う種数に驚きましたが、菊池 (1986) は既存文献から線画を引用しているものでオリジナルではなく、また1種ずつに細かな解説を伴うものではありません。ただ、九州西岸のヨコエビ種リストや、分類から生態まで幅広い学術論文のリストが充実していて、強力な手引書であることは間違いないです。
こうして並べてみると、図鑑的書籍の中でいかに 有山 (2022) がスゴイかがわかると思います。出版決定の報を受けた時は、こういった期待値をもって出版社へ発注メールを流した次第です。
さて、有山 (2022) の書評は和文誌タクサ53号に書かせていただいたわけですが、当然のことながら「書評」としての職責を全うすることに全ステ振りしています(なお、学術的批評よりコマーシャルに寄ってる感があるのは、評者が初めてこういう文章を書いたためです多分)。そこで、この場では個人的な感想に振ってコメントしていきます。
ちなみに、内容がよく似ている小玉氏による Cancer での書評のほうが先に公開されましたが、それぞれ個別に書かれたものです(読んでびっくりしました)。他にまた別の評者による書評が出れば違った見方も出てくるかと思います。
有山 (2022) を読む前に思ったこと
出版が予告された3月30日時点で、最初に考えたのはこの本の評価軸は2つになる、ということでした。その1つは「自分自身にとって良いものか」、もう1つは「底生生物学・甲殻類学にとって良いものか」という軸です。そして、ぶっちゃけて言うと、目次に目を通した時点でこれらの評価は概ね定まっていました。
自分にとっては、特に真新しい情報はないように思えましたが、日本語でヨコエビを語る上で数多ある障壁(和名未提唱の分類群,気軽に紹介できる入門書の不足など)が解決されることが大いに期待できました。また、有山先生しか知りえないコアな情報がコラムなどの形で掲載されることが予見されたので、これは大いに楽しみでした。カラー写真については事前にそのクオリティが分からなかったのと、体色は分類の役に立たないという認識だったので、あまり期待はしていませんでした。
そして、色々問題を孕みながら日本各地で読まれていると思われる「東京湾のヨコエビガイドブック」がとうとうその仮初めの役割を終える時が来たな、という感慨もありました。「東京湾のヨコエビガイドブック」の英題が「A Guidebook of ...」となっているのは実は意味があって、「The をつけるほど知見が洗練されていない」というのと、「日本各地でヨコエビのガイドブックが作られて本書が one of them になるくらいヨコエビ学が盛り上がってほしい」との願いだったりします。11年越しでしたが、引用可能な真っ当な書籍としての「ヨコエビガイドブック」が出る瞬間を見られたのはその些か他力本願な願望が成就した瞬間でもありました。
底生生物学・甲殻類学の観点からすると、最新の知見が日本語で紹介され、また平山 (1995) から実に27年ぶりに日本産の科を網羅した検索表が提供されること、そして「140種」にも上るヨコエビがカラー図版で解説されるとのことで、一足飛びに分類への理解が進むことが期待できました。本邦において、アマチュアや部活動やサークル活動の学生はおろか、底生生物を扱う大学の研究室やプロの環境コンサルタントですら、ヨコエビの種同定ができるのはごく一部と思われます。その要因の最たるものは、参照できる資料が主に四半世紀~半世紀前の書物であることと思われ、本書の登場はまさに地獄に仏といったところです。
ただ、「140種」という掲載種数は、本邦既知が約四百数十種と考えると網羅性は最大でも 34% 程度にとどまることを意味しています。目次に連なる科名を見ても、例えば淡水や潮下帯のグループはかなり省略されている印象ですし、直近でこのブログで採り上げたものではあの記載論文 (Ogawa et al. 2021) で扱ったナミノリソコエビ科は地域によりまともな報告がないためか科ごと欠落していたりします。後述しますが、本邦におけるヨコエビの書物で34%程度の網羅性は破格の高さであると同時に、ここから更に高めるのは非現実的だと思います。しかしながら、傍から見て専門性を期待できるインパクトのある書籍なので、「140種」も掲載されているとなるとだいたいの種類が載っていると考える読者が多いと思われ、種の選び方によっては漏れた普通種に対して強引な絵合わせ同定が行われる場面もあるのでは、とも思えました。
改めて 有山 (2022) を読む
さて、ここからは実際に読んでみての感想です。
まず、著者の人柄が感じられる温もりのある文体と、知っていることを全てつぎ込もうという熱量に圧倒されました。往々にして「知っていることを全部入れる」姿勢で文章を書くととっ散らかってしまいますが、全体に非常にまとまりが良くサクサクと読みやすいです。
研究方法について、採集や同定だけではなく記載論文投稿まで触れているのは完全に意表を衝かれました。ガイドブックや図鑑の類はおろか、教科書の類でもここまでの手厚さはそうそうない気がします。本ブログが言及されたり、本邦文献リストの中で Ogawa et al. (2021) が紹介されているのは嬉しいですね。共著者も喜んでいました。
大量の和名提唱がなされたのはありがたく、特に科レベルで日本語表記のしようがなかった サキシマオカトビムシ科,オオテソコエビ科,ミコヨコエビ科 に和名がついたのは念願叶った感がありました。モクズヨコエビ科の各属についても Bousfield and Hendrycks (2003) による細分化から20年が経とうという今日この頃、コンセンサスが得られていないから等と言いながら旧来の モクズヨコエビ属 Hyale を使い続けるには年月が経ちすぎており、すっとぼけるのがキツくなっていた頃だったので、今後の日本語の各種テキストへも大きな貢献があると思われます。強いて言えば、既に「ミサキモクズ」が存在する分類群に「サキモクズ属」という和名を提唱するのは、「フサゲモクズ」「フサトゲモクズ」のような無用の混乱の再来かと少し身構えたりしました。
あと、非常に細かい話ではありますが、Amphipoda(端脚目)の名前の由来について「第1~4は前向き,第5~7は後ろ向きなため」(p.9)と書いている点、人づてにはよく聞くものの、専門書の記述として世に出たことはないような気がしていて、今後ここが中心となって引用されていく予感がします。異説には文献が存在し、例えば Spence Bate & Westwood (1863) はこのように書いています。
This name was given by Latreille to the present order of Crustacea on account of the animals contained in it having both swimming and walking legs, and to distinguished it from the order Isopoda, in which the legs are adapted for walking only.
しかしながら、当の Latreille (1816) にそのような記述はないことと、Isopoda(等脚目)が Latreille (1817) によって記載された(出版年の上では1年だけ)若いグループであることを踏まえると、由緒ある文献ではあるものの真相を示しているかどうかは分かりません。
閑話休題。
書評の中でも触れましたが、個人的な驚きポイントは雌雄の生体カラー写真にこだわった構成で、これは本当に度肝を抜かれました。活きた姿を写真に収めるだけでもかなりの苦労が伴いますが、観察に堪える雌雄を揃えるというのは本当に気の遠くなる作業だと思います。形態分類のみに供するヨコエビの標本は採ってからなるべく早くフォルマリンで固定してしまうのが最善で、有山先生はそういった標本を長年蒐集されて4桁とか5桁とかの単位で所蔵しているはず。今回他の方からも写真提供を受けたとはいえ、生体写真を確保するというのは、それを上回る採集努力が必要と思われます。実際、論文で使用した標本とは別に新たに採集して改めて生体写真を撮った種もあるとのことで、その色彩や質感についても丁寧なコメントがあります。
さて、読む前は34%の網羅率を期待しましたが、掲載種類数140のうち実際は属どまり同定が2割程度を占め、実質の網羅率は本邦既知種の 23% に満たない数字になります。その上、種同定に有用な形態形質を挙げているのは一部の種類にとどまり、科から先の同定には読者の力量が試される構成となっています。
しかし、実際のところいくら紙面を拡充したとて本邦産種を不自由なく同定できる図鑑の類を作ることはできないと思われます。なぜなら、本邦産ヨコエビ類の解明度は極めて低く、掲載されている5種類全ての種同定が見送られているドロノミ科(ドロノミ属)などは本邦で顧みるに足る分類学的研究が行われたのはせいぜい2種であろうと思われ、手つかずのままその5倍とか10倍に及ぶ種が残されている気配がするからです。本属は世界から80種ほど記載されていますが、ガイドブックに載せようにもまだ学名すらないものも多いと思われます。
こういった細かい「学術上どうしようもない点」が累積していることと、現状として日本語で分類学の世界が構築されていないことから、こういった難物を相手に孤軍奮闘するような書物に対して、それ単体で「本邦ヨコエビ学」の麓から頂にロープウェイをかけるような働きを期待するのは筋違いではないか、という感はあります。ヨコエビについて「学術的に確実なこと」を知るためには、読みやすい日本語のテキストを漁るだけでは不十分で、原典たる外国語の文献にあたるほかなく、これは意地悪でもなんでもなく、無いものは仕方がない状態といえます。今後和文の学術論文がたくさん出るようになればそれも実現が近づいていくかと思いますが、それはこの研究分野が文化として成熟していくような状態だと思います。
この「魔の分類群」を調伏させるには、確かなところから少しずつ固めていくしかないと思います。地域なり、分類群なり、という感じです。そのためにはマンパワーが不可欠で、本書が本邦端脚研究者人口の増加に寄与することを心から願っていますし、有山 (2022) はそれに適役だと思っています。
ネットの反応
発売決定当初、Facebook のグループで紹介したところ、海外のヨコエビ研究者達から反響がありました。「いかなる言語であれこのような本が出版されることは意義深い」等のコメントをもらいました。
出版直後、まだ献本分しか発送されていない時期ですが、写真提供もされている和田太一先生によるレビューが光のように早かったです。しかもじっくりと全体を読み込まれています。
ゴカイの幼生期研究でおなじみ石巻専修大学の阿部先生のお手元にも。
三重大の木村先生も大絶賛。
写真提供されている幸塚先生の一言。
伊豆大島で水中写真を撮られていて、有山先生との共著でも知られる星野さんによるレビュー。
柏島のダイビングショップもご購入。これまで絵合わせのしようがなかったヨコエビ界隈にも、とうとう「絵合わせの波」が生まれていることを実感します。
組曲「甲殻類」でおなじみ井上さんもご購入。たいへん気に入っていただいているようです。
<参考文献>
— 有山啓之 2011. 今原幸光 (編著) 『写真でわかる磯の生き物図鑑』. トンボ出版, 大阪. [ISBN:9784887162259]
— 有山啓之 2016. ヨコエビとはどんな動物か?―形態・色彩・生態について―. Cancer, 25: 121–126.
— 有山啓之 2022. 『ヨコエビ ガイドブック』. 海文堂, 東京. 160pp. [ISBN: 9784303800611]
— 風呂田利夫・多留聖典 2016. 『干潟に潜む生き物の生態と見つけ方がわかる 干潟生物観察図鑑』.誠文堂新光社,東京.[ISBN: 978-4-416-51616-4]
— 平山明 1995. 端脚類. In: 西村三郎『原色検索日本海岸動物図鑑[II]』. 保育社, 東京. pp. 172–193.
— 石丸信一 2001. ヨコエビの分類学の発展 —近年の動向—.月刊 海洋, 号外No.26: 15–20.
— 加戸隆介(編著)/奥村誠一・広瀬雅人・三宅裕志(著)2021.『三陸の海の無脊椎動物』. 恒星社厚生閣,東京.[ISBN: 978-4-7699-1664-2]
— 小玉将史 2022. 書評 ヨコエビガイドブック 有山啓之[著]海文堂出版.Cancer, 31: 68.
— Latreille, P. A. 1816. Nouveau Dictionnaire d'histoire naturelle, appliquée aux arts, à l'Agriculture, à l'Economic rurale et domestique, à la Médecine, etc. Par une Société de Naturalistes et d'Agriculteurs. Nouvelle Édition. Paris. 1: 467–469.
— Latreille, P. A. 1817. Les Crustacés, les Arachnides, et les Insectes. In: [G. L. C. F. D.] Cuvier. Le Règne Animal, Distribué d'après son Organisation, pour Servrir de Base a l'Histoire Naturelle des Animaux et d'Introduction a l'Anatomie Comparée. Volume 3: i-xxix+1-653. Paris: Deterville.
— 森野浩 1991. ヨコエビ目. In: 青木淳一(編) 『日本産土壌動物検索図説』. fig.203–219. 東海大学出版会, 東京. [ISBN: 978-4-486-01156-9]
— 森野浩 1999. ヨコエビ目. In: 青木淳一(編) 『日本産土壌動物 -分類のための図解検索』. pp. 626–644. 東海大学出版会, 東京. [ISBN: 978-4-486-01443-0]
— 森野浩 2015. ヨコエビ目. In: 青木淳一(編) 『日本産土壌動物 第二版 -分類のための図解検索』. pp. 1069–1089. 東海大学出版会, 東京. [ISBN: 978-4-486-01945-9]
— 森野浩・向井宏 2016. 砂浜フィールド図鑑(1)日本のハマトビムシ類. 海の生き物を守る会, 京都市.
— 永田樹三 1965. 端脚目 (AMPHIPODA) 概説. In: 岡田要 『新日本動物図鑑[中]』第6版. 北隆館, 東京.
— 西村三郎 1999.『入門検索 海岸動物』.初版:1987年,保育社,東京.[ISBN4-586-31026-X]
— 小川洋 2011. 東京湾のヨコエビガイドブック. open edition ver.1.3. web publication. 140p.
— 小川洋 2022. BOOK REVIEWS ヨコエビ ガイドブック 有山啓之(著).タクサ,53: 66.
— Spence Bate, C.; Westwood, J. 1863. A history of the British sessile-eyed Crustacea 1. London: John van Voorst. pp. iii-vi,1-507
— 鈴木孝男・木村昭一・木村妙子・森敬介・多留聖典 2013. 『干潟ベントスフィールド図鑑』. [ISBN: 978-4-9904238-8-9]
— 武田正倫 1982. 『原色甲殻類検索図鑑』. 北隆館,東京.
— 富川光・森野浩 2012. 日本産淡水ヨコエビ類の分類と見分け方. タクサ, 32: 39–51.
— 上野益三・入江春彦 1960. In: 岡田要『原色動物大圖鑑』. 北隆館,東京.