2019年10月29日火曜日

SPIRIT~液浸標本~(10月度活動報告)


 形態分類に使うヨコエビの標本は,「液浸標本」(いわゆる瓶詰めの状態)と「スライド標本」のセットで構成されるのが普通です.


 昆虫のような乾燥標本で保存されている端脚類も,ないわけではありません.例えば,オランダの博物館に収蔵されているオオワレカラ (Caprella kroyeri) のタイプ標本は,乾燥標本だったりします (山口 1993).甲殻類を乾燥させて標本にするのは,19世紀以前のヨーロッパでは普通だったようです(オックスフォード大学の甲殻類標本コレクション参照).
 巨大なカニなどは,今日でも剥製のような状態で展示することがあります.しかし,そういったものを除き,甲殻類の乾燥標本は悲劇の始まりです.
 例えばサワガニくらいの大きさであっても,甲殻類の身体を乾かすと,毛や殻表面のコーティングが擦れ,関節など殻の薄い部分が破断します.厚い部分もちょっとした衝撃で割れたりして,パーツがバラバラになってしまいます.虫にも食われます.そういったわけで,ヨコエビストは専ら液浸標本をこさえています.





 ちなみに,私は以下のように液浸標本を作成しています.作り方の一例としてご紹介します.




1.”凍てつく愛の監獄”(ラヴ・プリズン

 サンプルをそのまま冷凍庫へドーン(ヨコエビを捕獲して持ち帰る際の工夫についてはこちらをご覧ください).一晩程度凍結させます.
 私は,水生種も陸生種も区別せず,水を満たしたチャック付きポリに入れて持ち帰ります.従って,サンプルを凍らせるとヨコエビ入りのシャーベットができあがります.

 小原 (2016) や駒井 (2003) でも触れられていますが,生きている甲殻類をエタノールに直漬けすると,たいへんもがき苦しんだ末に,付属肢がボロボロと脱落します.例えばカニやザリガニでは敵に襲われるとハサミを残して逃げる自切という習性があり,アルコールを浴びるとこれが起こるとの説もあるようです.
 エタをぶっかけられたヨコエビが暴れまくった末に肢がちぎれたのは見たことがあります.自切のプロセスというより意図せず外れているようにも見えます.大きなヨコエビほど派手にバラけるイメージがあります.何はともあれ,直漬けするとこちらの希望と関係ない場所が破断して標本がバラバラになりますし,褪色前の色や模様を記録することができませんし,倫理的にも思うところがあります.

 ただ,生きたまま99%エタノールに漬けたヨコエビは,背中に鉄の棒を入れたように真っすぐな姿勢になり,体長は測りやすく,付属肢は観察しやすくなります・・・うーむ・・・



2.解凍・洗浄・選別

 ヨコエビ入りシャーベットを袋のままシャーレやバットに並べ,室温に放置します.他のサンプルの検鏡などをやっていると程なくシャーベットが溶けてくるので,自然に氷から離れた個体をグリセリンや蒸留水へ移して適当に洗い,砂粒やデトリタスなどを落とします.その後の扱いやすさを考え,私はこの段階で属や種ごとに瓶に分けて入れています.

 シャーベットから無理に掘り出そうとすると標本を損傷する恐れがあるため,要注意です.
 褪色前の体色を記録する場合,生きたままでは暴れて写真が撮りにくいので,ラヴ・プリズンした標本を解凍して撮影しております.概ね生時に近い色彩が残せます.




3.固定

 まず,洗浄選別したサンプルを瓶の内壁に貼り付けます.猫背のまま固定されると観察や解剖がしにくいので,壁の表面で少し体を伸ばすようにしてから,エタノールを注ぎます.



 エタノールは瓶一杯まで入れると安心ですが,明確な基準があるわけではありません.ただし,標本に対してひたひたにしていると,揮発して液がなくなりやすかったり,身体が液面から出てしまう,などの問題が起こります.
 富川・森野 (2009) に準じて70%エタノールを用い,少量のグリセリンを添加しています.ただし,サンプルが熱などでクタっていたり,脱皮殻やDNA抽出後の外骨格だけを標本にする場合,速やかに脱水して組織を締めるために99%エタノールに漬けることもあります.身が詰まった普通のサンプルを99%エタに漬けると,ボディが硬くなりすぎて,解剖時に扱いにくい感じがします.また,いろいろ添加された消毒用アルコールを使うと,身が締まりすぎてバキバキになるイメージがあります.酒税がかからないので安くて助かるのですが・・・

 ベントスの標本固定にはしばしば中性ホルマリン(※1)が用いられます.ヨコエビの形態を保存する手法としても有効ですが,遺伝子を検討する予定があれば,固定から保存までエタノールを使用すべきでしょう(ホルマリン固定組織から遺伝子を読む技術というのは皆無ではないそうですが).




4.保存

 エタノールで固定した標本は,しばらく様子を見てから仕舞います.固定した液のまま保存することがほとんどなので,ラベルは固定の段階で入れます.

 しかし,例外があります.
 ハマトビムシ科 (Talitridae) や モクズヨコエビ上科 (Hyaloidae) などで顕著ですが,標本をエタノールに漬けて固定すると,次第に液が濁って,臭いが出てきます.標本の体積を少なめにして大量の液量を用意すればそのままでよいと思いますが,瓶がかさばるので,私は1週間後とか1か月後とかに液を替えています.液替えする/しないで遺伝子抽出効率などが違うかどうかまでは分かりません.
 また,これらの分類群でなくとも,大型個体をたくさん漬ける時などはどうしても水が出て液が薄まってしまいます.このことを念頭に,固定後に入れ替えたほうがよいかと思います.


 瓶はずっとスクリューバイアルを使っていましたが,科博の収蔵庫で使われている規格瓶というものを教えてもらい,今はそっちを使っています.
 規格瓶の壁は厚めで,割れにくそうです.柔らかな内蓋と硬い外蓋(スクリュータイプ)によって密閉します.No.1(最小サイズ?)は14mLです.どんなに小さなヨコエビでも,これに入れます.

スクリューバイアルはペフ付き.規格瓶には中蓋がある.


 瓶の中にダーラム管を入れ子にして,綿栓倒立することもあります.壊れそうな,あるいは壊れたサンプルの部品,覆卵葉の中から子供や卵がボロボロと出てきた時,あるいは持ち帰る途中で脱皮して本体とは別に殻のサンプルが出現した場合など,同じ瓶の中で混ぜたくないが管理No.を分けるほどでもない時に使っています.
 また,同じ場所から複数種出てきた時,個体のサイズが小さければ,保存液を節約するために,この方法を用いています.この場合はそれぞれの種に管理No.を振り,ダーラム管の中にラベルを入れます.


これを・・・こうして・・・こうじゃ・・・!



 瓶やアルコールの選定については,谷川 (2007) に詳しいです.
 ヨコエビではなくクモの研究に関する報文ですが,豊かな経験が滲み出ている読み応えある文章で,非常に勉強になります.特に「サンプルが小さくとも大きな瓶を使え」「金属のフタはNG」という教えには,さぞ苦い経験がおありなのだろうと,ただただ平伏するばかりです.



 さて,ここからが本題です.
 このたび,第4工程「保存」に少しアレンジを加えてみたいと思います.




(アレンジその1)グリセリンに漬けてみる


 かつて,ヒゲナガハマトビムシの透明標本を買った時,粘性の高い透明な液体に入っていた,という話をしました.化学分析はしていませんが,透明標本の常識に従えばこれはおそらくチモール添加グリセリンであり,つまり,ヨコエビ標本の保存液としてグリセリンが使える例と思われます.

 では,グリセリンだけを使ってヨコエビを漬けることはできるのでしょうか.
 エタノールはいずれ揮発してカラカラになりますが,グリセリンならその心配もないはず・・・!


 しかし,浮きます.

 少しでも空間があると逆にサンプルが空気に晒されてまずい気がします.

 先に挙げた透明標本は,ホルマリン固定後にタンパク質などをこれでもかというほど溶解除去しており,スカスカの状態です.ゆえにすぐ液と標本が馴染むのかもしれません.普通のアルコール液浸標本の代わりとしてグリセリン標本が作成できるわけではなさそうです.


 空気が入らないようにして1時間ほど放置すると,サンプルがグリセリンを吸って落ち着きました.



グリセリン浸漬した Platorchestia pacifica(♂).
驚きの透明感.

 3か月以上も付属肢の色合いが残るなど,形態の保存性はかなり高いようです.ただ,浮くのはやはりめんどくさいのと,何年も経ったらどうなるか確認できていないので,本当によい方法かどうかは分かりません.




(アレンジその2)アルコールジェル標本



 「昆虫をジェルタイプのアルコール消毒剤に漬けると観察しやすい」という報告(矢野・山野井 2018)があったので,ヨコエビでも試してみました.

 結果は・・・

 絶 対 に マ ネ し な い で く だ さ い


 もう一度言いますね.


 絶 対 マ ネ し ち ゃ だ め だ ぞ ★


 今回使用したのは消毒液のメーカーとして著名な健栄製薬の「手ピカジェル」です.成分は以下の通り.

  • エタノール(76.9~81.4 vol %)
  • ヒアルロン酸ナトリウム
  • グリセリン
  • トコフェロール酢酸エステル
  • カルボキシビニルポリマー
  • トリエタノールアミン

  どれが悪さをしているのか分かりませんが,エタノールとグリセリンの混和液からジェルに移した直後,標本の表面に白いモヤモヤが・・・

 その後,体内から何かが流れ出るように白い流れが続き,教材用としては無理だと思って更に数日置いておくと・・・


無残



 バラバラ・・・



結論:ヨコエビをジェル消毒剤に漬けてはいけない.絶対に,だ.


 本当にダメだからな.



 しかし,ジェルがここまで標本にダメージを与えるとは思いませんでした.本当に昆虫はうまくいくのでしょうか・・・?
 ヨコエビと同じくらいの大きさの虫で試してみます.


ネギオオアラメハムシ(Galeruca extensa).
まず展足して1週間程度乾燥させた後,
ジェルにINしました.


 いいじゃん!と思ったのもつかの間・・・


4日後.液が黄変し,ゆるくなっている.

 標本から液体が滲みだしたようです.ジェルの粘度が低下し,標本が浮いています.矢野・山野井 (2018) では,ラヴ・プリズン直後や二酸化炭素麻酔個体をそのままドボンしているようですが,本来はもっと乾燥させなければいけないのでは・・・?





(アレンジその3)プロピレングリコールを試す



 昆虫のDNAサンプル保存にプロピレングリコール(以下,PG)を用いる手法があるようです (Moreau et al. 2012).
 また,Twitter や Slack で,第66回生態学会での発表内容が紹介され,筋肉のコンディションという面からも PG が有効,との情報を得ました.

 PG といえば「設備機械系」という印象で,薬局などで見かけた記憶はなく,酢酸エチル並みに入手が難しいのでは?という勝手なイメージがありました.


 が・・・ Yaho○ショッピングで普通に買えました.


プロピレングリコール(500mL).


 販売ルートによりますが,500mLで1500円程度です.無水エタノールは1000円くらいなので,高いです.

 PGは食品添加物扱いなので,毒性や刺激性などの不安要素がないのもありがたい(食品ごとに添加してよい量が決まっており,長期的に摂取した場合の有害性も取り沙汰されています.飲んだりするのは無論ダメです).

 そして,可燃性なので危険物に指定されていますが,等級はエタノールやグリセリンと同じ「第4類」の「アルコール類」です.
 資格なしに保管できる PG の量は,エタノールと同様,現行法で400Lです.つまり,20mLの瓶へ満タンに入れたとしても,100本入り箱にして200箱!個人ヨコエビストが趣味の範囲で潮目を見ながら干潟に出かけて採集するレベルでは,一生かけても達しないと思います.

 ただ,律儀に1個体ごとに瓶を分けるようなやり方をしていると,うっかりドロクダムシやカマキリヨコエビの巣が集まってできた泥の塊なんかを拾ってしまった日には,突然数千とか数万とかの個体数に達する可能性があります.交尾前ガード個体を他と分けるとか,記載に使用するなどの事情があればもちろん別ですが,標本はなるべく採集時のロットでまとめて同じ瓶に入れましょう・・・


 さて,アブストでは最適濃度は分かりません.とりあえず99%でやってみますか.


生時の色彩.
今回使用したモクズヨコエビ類(hyalids)は,
いずれも紫がかった紅色で,
わずかに褐色がかった雲状紋や丸い白斑などを具えます.


 これを,こうして,こうじゃ・・・


上から,
99% PG漬け;99% エタノール漬け;70% エタノール水溶液漬けのモクズヨコエビ類(hyalids).
いずれの個体も今回は駒井 (2003) に従わず,禁じ手(生きたまま薬剤漬け)を用いました.


 PG に漬けてから一時間くらいは体色が落ちない感じがありますが,しばらく置いておくと,やはり”茹でた海老の色”になります.透明感は維持されますが,模様のディテールは消失します.

 これまでさんざん見てきた通りですが,70%エタノールは真っ白になります(実は,固定直後の色彩・模様の保存は最も優れています.数日から数週間かけて,褪色が進み,色気も何もない感じになります).
 99%エタノールは意外と色が残っていますが,激しい海老反りになっており,胸脚がごちゃっと前にまとまって伸びています.観察しにくい体制です.

 姿勢を見ると,背中が丸まった70%エタと,脚が絡まった99%エタより,背中が伸びて脚が適度に開いているPGのほうが良さそうです.また,PGで〆めた標本は付属肢をはじめとして各体節が柔軟性を保っています.


 では,分類群によって違いはあるのでしょうか.

ヒメハマトビムシ属(Platorchestia).
こちら2個体はいずれもラヴ・プリズンの後,
上は70%エタノールにて固定,下はPGにて固定.

 ハマトビムシ科はモクズヨコエビ科と近縁です.エタノール標本の様子はどちらもよく似ています.
 いつもの如く真っ白になっている70%エタノール標本と異なり,PG標本はグリセリン標本と同様,背面や付属肢に橙色が残っています.全体に透明感があり,付属肢が重なり合った部分を観察することが容易です.これはすばらしい!



ドロソコエビ属(Grandidierella)♀.
ラヴ・プリズン後,
上は70%エタノール固定,下はPG固定.

 特筆すべきは,PG標本において,ドロソコエビの複眼の模様が残っていることです.普通,エタノールで固定するとただの黒色の点になってしまいますが,PG固定では茶色の中に斑点が見えます.また,エタノール中では体色がくすんでしまうため,体表面の色素斑が見えにくいことがあります.一方,PG中では触角や胸脚の透明感が残り,姿勢も自然に仕上がるため,まるで生きているようです.ただし,生体より黄色みが強くなる気がします.

 実際にヨコエビの遺伝子の解析においてPGが有効かどうか,まだわかりません(昆虫とそれほど異なる結果が出るとも思えませんが).とりあえず,形態分類においては良い事がたくさんありますよ!


 まとめますと・・・

【4%ホルマリン】DNAの保存性に乏しく,組織も委縮する.
事前に緩衝液とすることが必須.また,ホルムアルデヒドは劇薬である.
通常は固定のみに用い,脱ホした後にアルコール標本とする.
【無水エタノール】DNAの保存性に優れる.組織は委縮する.
【70%エタノール】DNAは問題なく解析できると伺っているが,
非推奨としている文献もある.
形態分類においては多少柔軟性があり扱いやすい.
【グリセリン】色彩の保存性に優れ,組織は柔軟性を保つ.
DNAの保存性は不明.
エタノールや水より比重があり,置換されるまでの間は,標本が浮き上がってしまう.
【プロピレングリコール】色彩の保存性に優れ,組織は柔軟性を保つ.
甲殻類においてDNAの保存性に関する知見は乏しいが,問題はないと考えられる.


 まだ検証していないのは,エタノール以外のアルコール類と,上記薬液を固定/保存に使った場合の所見です.これはまたいずれ.



<注>
※1 中性ホルマリン 
 石灰殻をもつ生物をホルマリンに浸漬すると,液性が酸性のためカルシウムが溶出してしまう.このため,事前に重曹などを飽和させ緩衝液を調整する必要がある.一般的に,標本作成に用いられる濃度は4%とされる.


<参考文献>
— 駒井智幸 2003. In: 松浦啓一 (ed.) 『標本学 —自然史標本の収集と管理—』国立科学博物館叢書. 東海大学出版会, 神奈川県. 250pp.
— 小原ヨシツグ 2016. 『ガタガール①』. 講談社, 東京. 174pp.
Moreau, C. S., Wray, B. D., Czekanski-Moir, J. E. and Rubin, B. E. R. 2012. DNA preservation: a test of commonly used preservatives for insects.
Invertebrate Systematics, 27(1): 81–86.
谷川明男 2007. 日本産コガネグモ科ジョロウグモ科アシナガグモ科のクモ類 同定の手引き. 121 pp. 日本蜘蛛学会 (大阪).
富川光・森野浩 2009. ヨコエビ類 (節足動物門: 甲殻亜門) の描画方法. 広島大学大学院教育学研究科紀要. 第二部, 文化教育開発関連領域 58: 27–32.
矢島岳人・山野井貴浩 2018. 小学校理科の授業で役立つ市販の消毒用アルコールジェルを用いた昆虫標本のつくり方.白鴎大学教育学部論集, 12(1). 203–215.
— 山口隆男 (ed.) 1993. 『シーボルトと日本の博物学 甲殻類』. 日本甲殻類学会, 東京.

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