2023年3月1日水曜日

書籍紹介『ヨコエビはなぜ「横」になるのか』(3月度活動報告・その1)

 

 近年、ヨコエビ本が豊作です。

 2月末にまた楽しそうな本が出ました。


ほんの去年まで、一般向けに「ヨコエビ」をシングルイシューとした書籍はついぞ出版されていませんでしたので、驚くべきファンシーさにちょっと目を疑うような表紙です。夢かどうかフトヒゲソコエビに齧ってもらって確かめたいところです。特に高度に抽象化されたヨロイヨコエビがかわいいですね。

 

 『ヨコエビはなぜ「横」になるのか』(以下、富川 2023)を児童書か中高生向けの書物だと思っていると、たいへんな裏切りが待っています。目次を見てもまだはっきりと分かりませんが、本文に目を通すと、非常に濃密な内容になっていることに驚かされます。目次から想像される内容の3~10倍くらい濃いです(当社比)。


 「ヨコエビ」とは何か、またその特性である「横向きの姿勢」の特異性を正しく理解するには、ヨコエビやそれを内包する甲殻類という範囲まで含めて、分類学的構造や身体の形状についての基礎知識が必要になります。富川 (2023) ではそういった学術的な下地の形成にかなりのページを割きつつ、そこから先は軽快なテンポでヨコエビの様々な側面について専門的な解説を連ねていきます。

 後半の解説は解剖学のみならず捕食・被食・寄生の関係や、繁殖様式などにも及びます。その濃度たるや、多少甲殻類学に造詣がなければ、この本を開いたほんの数十分前には到底ついていけなかったであろうガチめな領域に達しています。そしてたとえ心得があったとしても、かなり造詣を深められるものになっていると思われます。

 そして、後半部へ達する前に前半部で身につけられる濃密な知見は、ヨコエビの学術書を読み解くためというより、一般書や学校教材などで使われている用語や見方と学術的場面でのそれとの違いを理解するというような、日常場面を土台にした構成になっているところに、芸の細かさを感じました。


 そういった「教科書」的な要素をひととおり堪能した後には、実際の研究を進めるための具体的な情報を手にすることができます。採り方や固定の仕方だけではなく、飼い方にもちょっと触れているところは、とても新しいと思います。また、海水・汽水域の22科と淡水域の10科(重複有)について図解検索表が掲載されています。有山 (2022) でもブレイクスルーと言える巨大な検索表が提供されましたが、富川 (2023) では図が付いていてビジュアル的な理解が捗ります。ハマトビムシ類に限っては 森野 in 青木 (2015) などに前例がありますが、海産でこういった資料が日本語としてまとめられたというのはかなり革新的な出来事です。今日日「フトヒゲソコエビ科」という表記を使うのは誤解を招く可能性もありますが、「類」と読み替えていただくのがスムーズかと思います。

 

 ヨコエビヲタクとして特に驚いたのは、最近では 大森 (2021) で言及があった、恐らく日本最古のヨコエビの商業的生体展示にして世界最高温度帯に棲息する種であろう南米のヨコエビについて、富川先生の手によって分類学的研究が進められているという情報。この属は現在100種ほどを擁し毎年何種も新種が記載される状況が続いているグループで、かつ形態的な差が少ないという難物なのです。続報に期待です。

 あと、本筋とは関係ないですが、引用文献が略式の表記になっていて、個人的にはタイトル込みの citation のほうが論文を探しやすい感があるので、芋づる式に学び直したり知見を深めていったりするには少々敷居が高いように思われました。そしてもっとどうでもいいですが気になった点を少々。すみません…細かいところが気になってしまうものでして…。

(p.76, 77) ”ペランピトエ・フェモラタ”は イッケヒゲナガヨコエビ属 Peramphithoe の消滅に伴って ニセヒゲナガヨコエビ属 Sunamphitoe に属位変更され、現在は S. femorata (Krøyer, 1845) となっている (Peat and Ahyong 2016)。

(p.157など) ”胸肢”という語が「胸脚」と混同されて使用されている可能性がある。「胸肢 thoracopod」はヨコエビにおいて「顎脚 maxilliped」「咬脚 gnathopod」「胸脚 pereopod」に相当し、以下のようになっているはず。

 第1胸肢=顎脚
 第2胸肢=第1咬脚
 第3胸肢=第2咬脚
 第4胸肢=第3胸脚

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 第8胸肢=第7胸脚

(p. 179) Brevitalitridae科は「和名なし」となっているが、富川 (2023) において引用文献に連なっている 有山 (2022) で「サキシマオカトビムシ科」という和名が提唱されている。


 個人的には、あまり疑問を持たずに受け入れてきた「ヨコエビが横向きになったまま動き回っている」というシーンをここまで真正面から論じられていることに、蒙を啓かれた感がありました。よくよく考えれば、背腹に扁平となって物の表面に張り付いている生物は数知れず、ヨコエビ(主に上科)のように左右を気まぐれに反転させながら横向きの姿勢を保っているグループというのは、あまり思い浮かびません。その理由を解き明かすカギは、確かにこれまで富川先生がネット記事や講演会などで繰り返し語ってこられた中にヒントがあったのですが、そうした洞察が改めてこうして書籍として再構築されたのは、たいへん意義深いことです。

 これは真の意味での「分かりやすさ」を目指した書物のように思えます。恐らく高校生をターゲットの中心に据えているようですが、単語や表現は可能な限り平易に、しかし記述内容そのものに一切の妥協や省略はなく、知識の無い状態から「ヨコエビはなぜ横になるのか」を理解できるようになる、最も確実かつ最短距離を突っ走っているように感じられました。何かと「分かりやすさ」が求められる今日、手前勝手な誇張や単純化によってそれを実現しようとする手合いは後を絶ちませんが、そういったざんねんな状況に一石を投じるものにも思えました。

 個人的な見どころはあとがきで、本邦端脚類学の権威・森野先生との会話から本のアイディアが出てきたといったくだりは、研究者が普段なにを考えてどういう会話をしているのか、という日常の一コマに想いを巡らせずにはいられません。



<取り扱い状況>

 3月1日現在、一般の書店やネットストアでの取り扱い状況は、わかりませんでした広大出版会ページ。大学生協に問い合わせるか、取り扱い開始を待つ必要がありそうです。



<参考文献>

— 有山啓之 2022. 『ヨコエビガイドブック』. 海文堂, 東京. 160 pp.

— 大森信 2021. 『エビとカニの博物誌―世界の切手になった甲殻類』. 築地書館, 東京. 208pp. ISBN978-4-8067-1622-8 

— 森野浩 2015. ヨコエビ目. In: 青木淳一(編) 『日本産土壌動物 第二版-分類のための図解検索』 1069–1089. 東海大学出版会, 東京. ISBN978-4-486-01945-9

— Peat, R. A.; S. T. Ahyong 2016. Phylogenetic analysis of the family Ampithoidae Stebbing, 1899 (Crustacea: Amphipoda), with a synopsis of the genera. Journal of Crustacean Biology, 36(4): 456–474.

 富川光 2023. 『ヨコエビはなぜ「横」になるのか』. 広島大学出版会, 東広島. 198pp. ISBN:978-4-903068-59-6

 

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