9月、10月は活動が滞っておりました。否、活動しすぎたのかもしれません。いずれご報告できればと思います。
今扱っているサンプルの分子系統解析をお願いすることになった共同研究者から、出版されたばかりのホットな書籍を紹介してもらったのですぐポチりました。
『種生物学シリーズ タイムカプセルの開き方 博物館標本が紬ぐ生物多様性の過去・現在・未来』(以下、種生物学会 2024)を読む
種生物学会 (2024) は、複数の著者が寄稿した論文集のような構成となっています。それぞれの記事はタイトルに非常にマッチしていて、一言で言うならば、博物館標本を扱う分子生物学研究の最前線について書かれた書籍です。
ちなみにヨコエビは出てきませんが、個人的に親交のある方が書いた文献が思わぬところでちらほら引用されていたりして、ニヤリとしました。
第1部は、超並列シーケンサー(所謂”次世代シーケンサー”)という新技術が、DNA解析の効率向上のみならず、分子生物学研究の在り方まで変えていく過程を多角的に述べたセクションといえます。
近年流行りの「研究者の人柄が分かるエッセイ」として読むこともできますが、どの記事も問題意識・課題と研究手法(短いDNA断片を解析する技術)、研究対象(博物館標本)が結びつく過程が鮮やかに描かれており、研究者を志す若者に大きな示唆を与えるものと思います。
第2部は、具体的な研究事例や手法を掘り下げていく構成になっています。
基礎知識や具体的な手技の工夫だけでなく、解析サンプルとして博物館標本を用いる場合やそういった依頼を受けた場合の注意点がチェックリスト化されているなど、面倒見の良さが目立ちます。また、有用なサイトを紹介する記事があるのも特色といえるでしょう。ちなみに最近、BHLは画像管理の委託先へのサイバー攻撃により画像表示ができなくなり、種生物学会 (2024) に示されたような真価を発揮できない状態でしたが、今は少しずつ復旧しているようです。
同位体分析の事例紹介もありますが、全体的にほぼ「博物館標本からいかに遺伝物質を取り出し、その劣化した遺伝物質からいかに情報を引き出すか」という話題で統一されています。タイトル通り、分子生物学が標本の外見からは分からない情報を巧みに引き出し、時計を巻き戻すように研究対象の過去を解き明かしていきます。分類群やアプローチの違いで、三者三様の新鮮な味わいがあります。
私がしつこく有用性を宣伝しているプロピレングリコール液浸標本も、その先駆的分類群である昆虫のセクションで登場します。
昆虫の場合、酢酸エチルなどの化学物質を使って〆ることが多く、また虫害を防ぐため標本庫の燻蒸はつきものです。しかし、こういった薬剤がDNAの断片化を引き起こし、解析の効率を低下させる可能性があるようです。乾燥標本としたチョウの中脚においてDNAが残っているといえるのはせいぜい30年とのことですが、肉食性の種は自己消化により断片化が促進されるなど、グループにより違いがあるようです(第3章)。チョウは食植性かつ薬品を使わず〆るため、特にDNA損傷リスクの小さいグループといえるでしょう。
ヨコエビの場合、安楽死にはしばしば”凍てつく愛の監獄”(ラヴ・プリズン:小原, 2016)が用いられますが、これは恐らくDNAへの影響が最も少ない方法の一つです。しかもすぐ固定液中に密栓浸漬するため「虫も食わない」状態となり、生物の遺骸が空気中に露出している乾燥標本のように虫害や燻蒸による損傷リスクもありません。固定液も酵素の不活化を狙っているため、肉食性種特有のDNA損傷も恐らく防げます。別の要因での劣化は避けられないにせよ、標本作製や管理の工程そのものにDNAに有害なプロセスを含まないというのはアドバンテージな気がします。また同じプロピレングリコール液浸標本でも、昆虫は現状としてエッペンドルフチューブ的なディスポーザブルな使途を想定された樹脂製容器を用いる手法なのに対して、甲殻類やクモなど昆虫と同じ門で同じようなサイズ感の生物で全身を液浸標本にする場合は、長期保管が考慮されたガラス瓶を用います。こういった面からも、昆虫に適合したプロピレングリコール液浸手法というのは、アルコール液浸で管理されてきた節足動物標本において昆虫を上回る保存性を有するのではと思います。
なお、種生物学会 (2024) にはありませんが、液浸標本には保存液の揮発や瓶の破損といったリスクのほか、紫外線や単純な経時劣化による遺伝物質の変質なども課題となると思います。こういった話題も今後文献上で議論されたりこういった書籍にまとめてくれると有難いと思います。
特に印象深かったのは、DNAバーコードリファレンスの信頼性に言及した記事。博物館標本はその実物が永続的に管理・保管されており、専門家が分類に関わっているため、そこから配列情報を得て紐づけできれば極めて理想的なリファレンスが取得できるというのです。
裏を返せば、そうではないリファレンスがどのようなものか、考えてしまいます。そもそも高精度に種同定ができるほど形態分類に造詣が深ければ形態分類の特性を理解しているはずで、実物もスケッチも残さずサンプルの廃棄なんてできるはずないという想像はつくところです。つまり、悪く言えば、標本や文献等を指定しない配列データや、文献の指定があっても形態形質の検討過程の透明性や追証性の担保に不足のある場合は、素人のなんちゃって同定の可能性があるわけです。
劣化し短断片となったDNAまで分析できる超並列シーケンサーなどの技術は非常にパワフルで、使いこなせればあらゆる疑問や課題を解決できるポテンシャルがありますが、それはあくまで現状の分類体系との整合性を整理した上での話であって、翻せばその既存の分類体系こそ(原則論として)博物館等の収蔵施設が維持を担ってきた標本が核となって積み上げてきたものであり、博物館標本に触れることは分子生物学の命題に迫る側面もある気がします。博物館標本の活用は、分子生物学のサンプルの一つの選択肢ではなく、既存の生物学の基盤たる分類体系をDNA解析の世界に導入する、重要な架け橋といえるのではないでしょうか。種生物学会 (2024) は、そういった根源的な部分を改めて考えるきっかけとなりました。
参考文献
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