2026年5月5日火曜日

宇野太郎伝(5月度活動報告)

 

 日本ヨコエビ研究の祖というと、誰が思い浮かぶでしょうか。永田樹三?岩佐正男?アナンデールやタッターソール、あるいは入江春彦やシーボルドを挙げる方もいるかもしれません。

 個人的に、日本初のヨコエビ研究者といえば宇野太郎だと思います。当時の東京帝国大学理科大学(東大大学院理学系研究科に相当)で卒業研究にヨコエビの分類を選び、動物学博士の学位を取得した人物なので、生粋の「ヨコエビ研究者」と言えるのではないでしょうか(異論は認める)。


 宇野太郎(以下、太郎)に関する情報源は非常に限られています。普通に検索して出てくるのは動物学雑誌の記事2篇、太郎本人による うの (1901) と、同窓生による 高橋 (1902) くらいです。とはいえこの 高橋 (1902) は相当な情報量があり、太郎に関して以下のことがわかります。

  • 生没年・生没地
  • 研究内容と進捗
  • 学歴


 このたび、若手ヨコエビ研究者駒鳥氏@komadoriyahataから支援を受け、また金沢市内泉野図書館および石川県立図書館にリファレンスをかけて情報収集を行いましたので、粗はありますが現時点での結果をご報告します。それにしても、図書館には普段から異常な調べ物をする逸般人が多く来館するためか、理由も訊かずに協力してくれるのはありがたいです。



東京

 太郎の業績を確認してみます。うの (1901) のほか、マッキントッシの原稿を翻訳した報文が幾つかあります (マッキントッシ, 1901a–c)。うの (1901) もステビングの種リスト (Stebbing, 1888) のレビューのようなものなので、海外の研究事情を日本に紹介するようなスタイルを好んだようです。今日の日本動物学会ではこのような原稿は受け付けられない気がしますが、時代ですね。そして肝心の卒論は東京大学にあるものと思いますが、これは関係者に手を回してもらう必要がありそうです。

 太郎は大学側の扱いの上では東京の出身とされており(東京帝国大学, 1916)、御茶の水幼稚園を出てからずっと東京にいて「家」として東京に在住していた実態があるといえそうです。文科省のホームページによると、当時の幼稚園は今とさほど変わらない年齢をカバーしていたそうなので、太郎は生後間もなくから遅くとも6歳までの間に東京へ移住していたことになります。

 病没した時には小石川同心町に住まいがあったとのことですが、この町名は明治五年に成立したものらしく、太郎が上京した時から住んでいた家ではなく、後に進学に応じて移り住んだ場所かもしれません。上京の折、太郎単身で東京の縁者に預けられていた可能性もありますが、太郎が3歳になった時点で一家で金沢から東京へ移住していた可能性を考えるべきでしょう。ただ、戦前の東京の情報はだいたい失われていることが多いため確かな材料を得ることは困難と思われ、ここで一旦保留とします。



金沢

 太郎は「加州金澤寺町」に生まれたとあります。生家が残っている可能性はまずなさそうですが、親類は辿れるかもしれません。



 石川県立図書館が提供する「石川県ゆかりの人物」のサイトで宇野姓を検索すると、16人が該当しました。太郎本人は拾えませんでしたが、ここに血縁者が含まれる可能性があります。太郎の先祖は加賀藩の侍だったとあるので、今も残る寺町という地名と合わせて、絞り込みはできないでしょうか。

 武家としての宇野家には様々な系統があるようです(石川県姓氏歴史人物大辞典 編纂委員会, 2000;以下、歴史人物大辞典)。ただ、どの家が寺町に拠点を置いていたかは分かりません。

 石川県のデジタルコレクションにある寛文七 (1668) 年の「金沢図(寛文金沢図)」、延宝年間 (1672~1681年) の「金沢図(延宝金沢図)」で寺町の地割を確認したものの、確認できる武家屋敷に宇野姓はみられませんでした。その他、宇野家の始祖である宇野鉄作榮應が寛永六 (1629) 年に居を構えていたという油車など、宇野家にゆかりのある町の周囲でも探してみましたが、宇野家らしき屋敷は見つかりませんでした。城下全体までは見れていないため、寛文・延宝年間には他の文献に登場する町には住んでいなかったのかもしれませんし、町名の対応の誤りや役職や屋号で記載されている可能性といった、探索の精度も再考が必要かもしれません。

 享保九 (1725) 年にまとめられたと考えられている侍帳では、宇野姓は4人です(高木,1999:以下、侍帳)。ただ、出大工町片町2丁目,古道といった町名はあるものの、寺町に居住していた家はないようです。

 明治三 (1870) 年の時点で加賀藩ゆかりの宇野姓の人物は17人が数えられ、その菩提寺は10あります。このうち、寺町に菩提寺を持つのは2人です(古川, 1997;以下、先祖由緒并一類附帳)


 妙法寺は鉄作榮應の菩提寺で、この家系は歴史人物大辞典で「八郎左衛門系」とされています。


 八郎左衛門系は、前田利常に仕え200石を数えた八郎左衛門から始まり、享保九 (1725) 年には定番御馬廻五番組で120石を奉じていた小忠太長太夫、そして幕末から明治にかけては三郎左衛門栄精とその子・直次郎益之のつながりが見えます(侍帳,諸氏系譜,先祖由緒并一類附帳,歴史人物大辞典)


 墓碑は15基あり、うち1基は「榮應」と読める文字、そして大正時代に直次郎益之が建てたものも確認できました。他の墓碑には宝永,天保,慶応,文久といった年号を読み取れるものがありましたが、ほとんどが戒名のみ記載されており、系譜との対応はできませんでした。


 実成寺は洪平保親の子・辰太郎親孝の菩提寺で、明治三 (1870) 年当時の石高は100石だったようです(先祖由緒并一類附)


 ただ、今回の踏査では墓碑を発見することはできませんでした。


 加賀藩は前田利常が計画的に寺院をまとめて寺町を整備した経緯もあって、鉄作榮應が油車に居を構えていたように、そもそも菩提寺と同じ街に住んでいるとは限りません。寺町に菩提寺のない家も太郎の系譜にあたる可能性があります。

 先祖由緒并一類附帳は太郎生誕の前年の調査に基づいています。子をなす可能性がある年齢での絞り込みも試みましたが、除外できる家はなさそうです。

 少なくとも江戸中期においていずれの家も川向かいの城下に居を構えていて、太郎の家系はどこかの時期に寺町へ移住、明治になって東京へ移ったようです。享保から明治の間には100年の隔たりがありますので、この間を埋める史料が見つからない限り諸家の足取りは見えてきません。


 なお、歴史人物大辞典を参考に諸資料(石川県, 1974等)を検討した結果、次に挙げる宇野家は太郎の系譜と無関係と考えてよいと思われます。

  • 明和年間に絶えた前田家家臣(十兵衛)
  • 田子島の地侍
  • 羽咋郡の一族(明治初頭の藤兵衛・次三郎福久・亀一郎の3代、ならびに明治末期の羽咋郡長・与一順美,飯山高等小学校長・長秀,海軍機関中尉・宗二)
  • 高松町の一族(精一)
  • 文化人(柳壷)



まとめ

 太郎に繋がる系譜を年表に整理してみます。

  • 寛永六 (1629) 宇野家興る
  • 寛文七 (1668)  金沢図まとめられる,太郎の先祖は寺町に居住していない?
  • 延宝年間 (~1681) 金沢図まとめられる,太郎の先祖は寺町に居住していない?
  • 享保九 (1725) 侍帳まとめられる,太郎の先祖は寺町に居住していない?
  • 明治三 (1870) 先祖由緒并一類附帳まとめられる
  • 明治四 (1871) 4月 太郎生まれる
  • 明治七 (1874) 一家東京へ移住?
  • 明治三一 (1898) 7月 太郎、共立學校第二部卒業
  • 同年9月 太郎、帝國大學理科大學に入学
  • 明治三四 (1901)7月 太郎、帝國大學理科大學卒業
  • 明治三五 (1902) 4月 太郎、青山女學院の博物學講師の職を得るが、肺を患い熱海で療養に入る
  • 同年10月15日 太郎、東京にて没する

 東京への移住、名門校への進学など、太郎のキャリアは経済的基盤や社会的地位の高さを伴っているように思えます。八郎左衛門系の石高は享保年間に120石、市郎兵衛系の石高は300石を越えていますので、宇野家においてこの2家が並び立つ存在といえ、太郎はこのどちらかの家から支援を受けていたと推測されます。

 八郎左衛門系の直次郎益之は、大正十二 (1923) 年に日露戦争従軍中に夭逝した武之(息子?)の墓碑を建てており、妙法寺を菩提寺として金沢に残っていたことが考えられます。寺町に生家があったという点で有力ではあるものの、明治初期に東京へ移ったとは思われず太郎の父とは考えにくいです。

 市郎兵衛系の又市直副より後の系譜は不明瞭ですが、「妙円寺」を菩提寺とする大作富素・直作富有・源一郎富良の3名(兄弟と兄の子)は明治三年の石高を足し合わせると335石になるので、ここに繋がるものと解釈できます。直作富有は産業振興や教育分野に携わり、地元石川県で活躍していたことから、太郎の父とは考えにくいです。「妙円寺」という寺院が寺町に現存していない点でも太郎との接点は薄いといえるものの、直作富有が共立学校(開成高校)の設立に携わったという点は太郎の来歴と交わります。直作富有の名は複数の文献にみられるため、ここから辿って市郎兵衛系の全体を押さえることができないか思案しています。

 調査方法を模索しながら走り出してしまったため時間が足りず、リファレンス頂いた資料の中に精査できていないものがあり、アプローチできていない場所もあります。対象とした年代の文書が多く収められている玉川図書館が改装中で閉館していたのも痛手でした。今後、ほとんど注目されていない太郎の来歴に光を当てるとともに、菩提寺を突き止めてお参りをすることを目標に、引き続き進めていきたいと思います。とはいえ積み新種の処理が優先なので、次のアクションはだいぶ先になると思います。


 最後になりますが、貴重な資料を提供頂き調査にご協力下さった駒鳥氏@komadoriyahata、並びに金沢市立泉野図書館と石川県立図書館の司書の方に篤く御礼申し上げます。



<参考文献>

— 古川脩(編著)1997. 『加賀藩士人別帳』.(先祖由緒并一類附帳

— 石川県 1974.『石川県史 第4編』.石川県図書協会,金沢.

— 石川県姓氏歴史人物大辞典 編纂委員会 2000.『角川日本姓氏歴史人物大辞典17 石川県姓氏歴史人物大辞典』.角川書店,東京.ISBN4-04-002170-3

— 石川県史調査委員会・石川県立図書館史料編さん室 2011.『石川県史資料 近世篇(11) 諸士系譜 四』.石川県,金沢市.

ダブリウ、シー、マッキントッシ William Carmichael  M'Intosh(著),宇野太郎(訳)1901a.海産動物の着色に就て. 動物學雜誌13 (151):164-167.

ダブリウ、シー、マッキントッシ William Carmichael  M'Intosh(著),宇野太郎(訳)1901b.海産動物の着色に就て(十三巻第百五十一號續き). 動物學雜誌14 (159):6-10.

ダブリウ、シー、マッキントッシ William Carmichael  M'Intosh(著),宇野太郎(訳)1901c.海産動物の着色に就て(承前). 動物學雜誌14 (160):46-50.

— 高木喜美子(翻刻)1999.『享保侍帳』.

Stebbing, T. R. R. 1888. Report on the Amphipoda collected by H.M.S. Challenger during the years 1873–1876. Report on the Scientific Results of the Voyage of H.M.S. Challenger during the years 1873–76. Zoology, 29 (part 67): i–xxiv, 1–1737, pls. 1–212.

高橋堅 1902. 理學士 宇野太郎君逝く. 動物學雜誌, 14 (169): 424-425. 

東京帝国大学(編)1916.『東京帝国大学一覧』從大正4年 至大正5年,東京帝国大学, 東京. 国立国会図書館デジタルコレクション (参照 2026-05-05)

うの 1901. 日本近海にて「チヤレンヂー」號に由て採集せられたる「アムフイポーダ」.  動物學雜誌13 (150): 146–147. 

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