2016年11月13日日曜日

時空ミステリーWAREKARA (11月度活動報告)



 ヨコエビの秋、満喫されていますでしょうか。


 今月はワレカラについて人に話すことがあったため、そのブログ版を掲載します。


 もともと私はヨコエビをやっているにも関わらず、不勉強につき、非常に親いワレカラについてほとんど知りません。知らないながらも、昔はセレブな人たちがよく話題にしていたワレカラという生き物に思いを馳せてみたいと思います。


 ワレカラはヨコエビの仲間です。ヨコエビとは何かはこちらに示していますが、要するにエビよりダンゴムシに近い、小型の甲殻類です。


 ヨコエビの中でもドロクダムシの仲間と関係が深いとされております。ドロクダムシの仲間は「ヨコエビ亜目」とは別に「ドロクダムシ亜目」を構成するとの説もありましたが、現在はSenticaudata亜目に含まれます。

ヨコエビに近いワレカラ「ヨコエビワレカラ科 Caprogammaridae」と、
ワレカラに近いヨコエビ「ドロノミ科 Podoceridae


 ワレカラは長らくワレカラ亜目とされてきましたが、Ito et al.(2008)の分子系統学的な解析によって、ドロクダムシ上科に含まれるとの見解が示されました。Lowry & Myers (2013)でもドロクダムシ下目の中に入っているので、これは現在主流の考え方といってよいと思います。

ワレカラ(左上)がドロクダムシ下目に含まれた、Lowry & Myers (2013)に基づく分類。


 ワレカラの身体は細長く、カマキリやナナフシに似ています。英名skeleton shrimpも、この細い身体に由来するのでしょう。
 ワレカラは腹節を退化させる傾向が強く、ほとんどの種には腹肢がありません。腹肢は遊泳力を与え呼吸にも役立っているので、これがないと泳ぐことができないばかりか、自分で水の流れを生み出せないので呼吸の効率も落ちます。そして、エンジンが無ければ舵も不要と、大部分の種は尾肢までサッパリと断捨離しています。

ワレカラの身体はほとんどが胸部です


 ワレカラは1998年の時点で、日本近海から115種が知られています(Takeuchi, 1999)。これも日本の生物多様性、そして20世紀に入ってから日本各地でワレカラが採られて研究されてきたという、いわばフィールドワークの賜物といえます。

 それより古い時代から、ワレカラは日本人に親しまれてきました。そのようなフクロエビ上目はあまり類がありません。その流れを追ってみます。





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平安~鎌倉時代


『古今和歌集』 延喜12(912)年
 恋五の巻に、このような歌が収録されています。

海士のかる 藻にすむ虫の われからと
音をこそなかめ 世をばうらみじ
典侍藤原直子朝臣

海士が採る海藻に住んでる虫は「われから」というが、
私は自分が招いたことだと泣くばかりで、決してあの人を恨んだしない

 これがブレイクしたおかげか、「われから」はいろいろな作品に登場するようになります。





『拾遺集』 寛弘3(1006)年

君をなほ 恨みつるかな 海人の刈る
藻に住む虫の名を忘れつつ
藤原公季
あなたのことをまだ恨んでしまう
海士が採る海藻に住んでいる虫の名を、忘れてしまったから

 こちらは、「われから」を忘れる=「我から」ということを忘れる、という意味の歌で、「自分が悪いと思っていたのに、そのことを忘れて相手を責めてしまう」気持ちを表現しています。





『枕草子』 平安時代前期
 「虫づくし」というコーナーに「われから」が登場します。

虫は鈴虫。ひぐらし。蝶。松虫。きりぎりす。
はたおり。われから。ひを虫。螢。
(第41段)
虫といえば スズムシ,ヒグラシ,チョウ,マツムシ,コオロギ,
キリギリス,ワレカラ,カゲロウ,ホタル。  
  (※鈴虫と松虫,キリギリスとコオロギの対応には諸説あり)

 この顔ぶれに名を連ねているところをみると、われからは(たぶんよい意味で)なかなかの知名度であったことが伺えます。



 国際日本文化研究センターのデータベースで調べたところ、重複したものを差し引いても、平安時代から江戸時代にかけて「われから」が登場する歌は100首以上も詠まれています。
 ここには約2万件の和歌が収録されていますので、その0.5%に「われから」という語が登場することになります。
 この中には単純に「自分から」という意味だけのような歌もあり、藻に住む「われから」を意識したことが確実なものは70件程度です。
 これがすごいのかすごくないのかよく分からなかったため、とりあえず、『枕草子』の虫づくしに挙げられた虫がどのくらい和歌に詠まれているのか、検索してみました。

「もにすむむし」のうち、「われから」という語を含む歌は、「われから」に加えてある。

 こうしてみると、「螢」が圧倒的に多く、「ひぐらし」「松虫」「きりぎりす」 が横並びとなっています。「われから」はそれらと比べてだいぶ下です。この場合、200件が約1%のラインなので、そこを上回るものこそが本当のメジャーと考えることもできそうです。ただ、歌に詠まれていることが知名度と直結するかというとそうとも思えず、題材として使いやすさだったり、詠み手の好みも大いにあるかと思います。
 ということで、当時「われから」は超メジャーではなかったかもしれないが、そこそこの知名度があったものと推察します。





『源氏物語』 寛弘5(1008)年
 第四帖。歌にひっかけた会話の中に「われから」という言葉が出てきます。

 あの『源氏物語』 ですので、たった一言のそのシチュエーションも、相当に複雑な状況下で成立しています。
 まず光源氏には葵上というお相手がいたにも関わらず、年上の愛人である六条御息所との関係にはそろそろ飽きていて、空蝉という女性とはすれ違いがあって悩ましい中で、さらに互いに身分を明かさないままデートをしている夕顔の君(仮)がいるのです。光源氏17歳、やんちゃにも程があります。「われから」が出てくるのは、この夕顔の君と廃屋で密会するシーンです。

 光源氏はとうとう身元を明かします。しかし、名を問われた夕顔の君は、「海人の子なれば」と断り、光は「よし、これもわれからなり。」と引き下がります。


 この「海人の子」というのは『和漢朗詠集』にある歌に由来し、宿も定まらない身元のはっきりしないという意味合いと考えられています。 

白浪の 寄するなぎさに 世を過ぐす
海人の子なれば 宿も定めず


 この場面で「これは私がいけない」という意味ででてくる「我から」は、「われから」と掛詞になっています。この「われから」は「海人」と関わりの深い語なので、これは和歌に通じる者同士のハイレベルな会話を描写したものです。

 鈴木(2012)は光の「われから」には別の歌の「ゆくえさだめぬわれから」も引かれていると指摘しており、この解釈を採用する場合は、自らの境遇も同じようなものだという意味まで盛り込んだ、更にハイレベルな会話を交わしていることになります。

沖つ波 うち寄する藻に いほりして
ゆくへさだめぬ われからぞこは
『古今和歌六帖』3 水 永延元(987)年または永観元(983)年





『能因歌枕』 平安時代中期
 歌枕の解説書です。この中では「我からとハ、海に藻などにつく虫をいふ。」と説明されています。類書の『袖中抄』にも同様の記載があるようです。





 藤原直子の歌には「音をこそなかめ」という表現があります。
 「我からと泣く」が「われから」という名前の掛詞であることは確かなのですが、鳴くというところまでかかっていると考える人もいるようです。この歌を本歌取り(インスパイア)した他の歌でもこの「鳴く」と「泣く」を掛けているような歌がみられる一方で、「本当は鳴かない」と言っている歌まであり、思い思いの「われから」があったようです。

なみかくる のしまかさきの きりきりす
もにすむむしの こゑかとそきく
『夫木抄』 延慶3(1310)年頃

まことには もにすむ虫の 声はせす
なくうつせみの われからそうき
九条基家 『宝治百首』宝治2(1248)年

 実際のところ端脚類のワレカラが発音するという知見は得られていないようですが、発音器を擦り合わせたり、他の何かを叩いたりして音を出す小型甲殻類はいますので、当時何が「われから」と呼ばれていたかを含めて、検討の余地はあるかと思います。

 さすがに「鳴き声がワレカラと聞こえる」ような面白現象があるとは思えませんが、その名の由来ともいわれる「乾くと殻が割れる」ときに音がして、それを「鳴く」と表現したとも考えられます。





『伊勢物語』 平安時代中期
 ストーリーの中に、「われから」が詠まれた和歌が2度登場します。



五七段 恋ひわびぬ
 とても短い話です。この歌の場合は「我から」と自分を責めているというより、自らの身を砕くようだという比喩表現になっています。

 むかし、男、ひとしれぬもの思ひけり。
つれなき人のもとに、
恋ひわびぬ 海人の刈る藻に やどるてふ 
我から身をも くだきつるかな

昔、人知れず恋をしている男がいた。
つれない相手へこのような歌を贈った。
” 恋こがれています 
海人が採る海藻にワレカラが宿ると聞きますが、
私は自分からこの身を砕くほど恋に苦しんでいます ”


六五段 在原なりける男
 こちらでは、『古今和歌集』にあった藤原直子の歌が引用されています。あらすじはこんな感じです。

<登場人物>

 在原 : 若さゆえ一途すぎる主人公。
 女性 : 年下の彼氏に振り回される。
 天皇 : 文徳天皇。顔も声もいい。
 大御息所 : 皇子か皇女を産んだことがある高位の女官(清和天皇の母にあたる藤原明子と解釈されている)

 大御息所のいとこにあたる女性は、天皇の寵愛を受けながらも、若い男・在原を愛人にしていた。しかし、在原が空気を読まずにしょっちゅう職場に会いに来るので、困って里に帰ってしまう。すると在原は後先を考えず、よりあからさまに彼女を追いかけるようになるが、徐々にこれではいけないと悟り神仏にすがる。しかし、恋心を断ち切れない。そうした中、女性は天皇の唱える念仏を耳にして、その尊さに心を打たれ、思い余って泣いてしまう。事情を知った天皇は在原を遠方の地へと追放する。女性は罰を受けて、大御息所によって蔵に監禁され、自責の念にかられて「われから」の歌を詠む。在原は流刑地を抜け出し、夜毎に笛を吹いて女性を誘うが、会うことは叶わない。

 オチはとくにないのですが、在原は最後までみっともなくつきまとって反省の色がみえないので、見境のない若い男はどうしようもない、って話みたいです。女性のほうも在原には未だに未練があるようにも見えて、なんでキミに恋してしまったんだろう・・・ってやつでしょうか。





『後続拾遺集』 嘉暦元(1326)年
 

あぢきなや 海士の刈る藻の 我からか
憂しとて世をも 恨みはてねば
藤原為氏


 「われから」が和歌の題材となったのはその名前にストーリーを絡めやすいのと、「海士のかる藻」がロマンをかき立てるためと思われます。


 和歌の時代には、海藻は食べるためあるいは藻塩を作るために盛んに採集されていました。

 国際日本文化研究センターのデータベースで藻塩(もしほ)に関する和歌を探したところ全体の3%に及ぶ600件以上がヒットし、われからを凌ぐ人気テーマであったことが伺えます。
 しかしながら、藻塩法は実は平安時代にはすでに廃れており、その後の時代に詠まれた藻塩というのは本当の意味での藻塩に触れて詠まれたものではないのです。

 藻塩法がまだ生きていた可能性があるのは、『万葉集』に収められている「神亀三年秋九月十五日、播磨國印南野に幸す時に笠朝臣金村の作る歌一首、并びに短歌」と題される歌が詠まれたころです。この歌もかなりの人気を博し、鎌倉時代には藤原定家がスピンオフ作品を詠んでいて、これは小倉百人一首に連なったりしていますが、その頃には藻塩は歌の世界の中だけの存在だったと考えられます。


 「われから」に関しても、現物を実際に見て和歌が詠まれたのか、その証拠もどこにもありません。日々の生活の中で「われから」を見つけるたびに歌にしていたとか、そういった経緯も示されていません(後で詳述します)。

 折しも鎌倉時代は海藻利用の形態が変化した頃でもあり、テングサから心太を作り出すなど、加工食品として活用される場面が増え、そのままの海藻に触れる機会が減少していきます。
 ただでさえ目にする機会が少なかった「藻にすむ虫」は、鎌倉時代以降、文化人にとってより遠い存在になっていったのかもしれません。



(その他 「われから」の歌 掲載和歌集)

『堀河百首』長治2(1105)年
『千載集』文治4(1188)年
『登蓮恋百首』
『山家集』
『正治後度百首』正治2(1200)年
『秋篠月清集』元久元(1204)年
『拾遺愚草』建保4(1216)年
『道助法親王家五十首』承久元(1219)年
『明日香井集』承久3(1221)年
『洞院摂取家百首』貞永元(1232)年
『新勅撰和歌集』 貞永元(1232)年
『壬二集』寛元3(1237)年
『続後撰集』 建長3(1251)年
『白河殿七百首』 文永2(1265)年
『続古今集』 文永2(1265)年
『嘉元百首』 嘉元元(1303)年
『文保百首』 文保2(1318)年
『続千載集』 元応2(1320)年
『亀山殿七百首』 元亨3(1323)年






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室町時代


『草根集』 文明5(1573)年
 正徹による「われから」の歌が3首収められています。特にこの歌は、虫の命は儚いというイメージをうまく盛り込んで詠まれています。

われからと 恋にや捨てん あまのかる
玉もかくれの 虫の命を

正徹

「われから」という、海士が採る海藻に隠れ住む虫の命と同じなのだ、
恋のために自分からこの命など捨ててしまおう



(その他 「われから」の歌 掲載和歌集)

 『延文百首』 延文2(1357)年
 ”頓阿法師詠” 延文2(1357)年
 『新拾遺集』 貞治2(1363)年
 『為尹千首』 応永22(1415)年
 『永享百首』 永享11(1439)年





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江戸時代


 江戸初期に編纂された『玉雪集』などに「われから」という語を含む和歌がありますが、実際に詠まれたのは戦国時代であったりするので、われからブームは廃れたといってよいかもしれません。

 江戸時代に成立したと思われる和歌の用語解説書『色葉和難集』では、「われから」「藻につく虫」の二つの項目があり、「小エビに似ている」などと解説されています。



 一方、博物学の草分け的な書物が刊行されるようになり、文学から離れたところで「われから」が取り上げられています。しかし、ブーム去りし折、ただでさえ実物をよく知る人が少なかったこともあってか、正体については議論が百出し、いくつかの異なる説が唱えられていました。





貝類説



『大和本草』 宝永7(1709)年
 16世紀半ばに中国(明)で書かれた『本草約言』の記述に、「藻に住む虫のわれから」をあてはめています。

古歌ニヨメルハ藻ニ住ム虫ナリ 
本草約言ニ曰紫菜其中ニ小螺螄有 
今按ニ此類ワレカラナルベシ 
藻ニツキテ殻の一片ナル螺アリ分殻ノ意ナルベシ

フタナキ故ナリ

古い歌に詠まれた藻に住む小さな虫である。
『本草約言』いわく”紫菜(アマノリ)”には小さなニシ(巻貝)がつくとのことで、
これがまさに「われから」であろう。
藻に付き一片の殻のみをもつ貝で、

蓋がないことから”分殻”という意味である。



 本書には図はありません。
 『千蟲譜』はこの説をとりあげ、「紀州の方言」としています。


『千蟲譜』に出てくる「ワレカラ」のうちの一つ。
『本草約言』の説を基にした姿とされているが、二枚貝に見える
(国立国会図書館デジタルコレクションより)



『日東魚譜』 元文6(1741)年
  魚介類の図鑑で、現代でも遜色のない精緻なスケッチが載っています。しかし、「ワレカラ」の図は他の生物の図と比べて明らかにショボく、確たる実物があって描かれたのかは大いに疑問です。

小蠃螄
和礼加良ハ即チ破レ殻也 
此ノ螺極テ小ナリ 
形假豬螺ノ如僅米粒如シ 
殻薄破レ易シ故之名矣 
和歌詠シム海人乃刈留藻耳住牟虫乃和礼加良乃チ此ノ蠃也

「われから」は「破れ殻」ということである。
このニシ(巻貝)は極めて小さい。
形はバイに似て、大きさは米粒ほどである。
殻は薄く破れやすいのでこの名がある。
和歌に詠まれた海人の刈る藻に住む虫のわれからは、この巻貝である。

『日東魚譜』の「小蠃螄(ワレカラ)」
(国立国会図書館デジタルコレクションより)



『目八譜』 天保14(1843)年
 1000以上の項目からなる貝類の図鑑で、『千蟲譜』『大和本草』の説を紹介しています。「ヨメガカサガイに似た一枚貝」との注もあります。

「われからに似た貝類」ヒザラガイの仲間としている。等脚類のようにも見える
(国立国会図書館デジタルコレクションより)。






甲殻類説




『閑田耕筆』 享和元(1801)年
 われから(ありから)に関する諺が紹介されています。

われからといふもの小ゑびのごとしと袖中抄にも見ゆ
越前 若狭 丹後わたりの方言にはありからといふ
尺なぎといふ物に似て凡一寸計の赤きものなり
わかめの類の藻につけり 
わかめ売ル女どもにありから多く付きたりと咎むればありからくハぬ上人もなしと申すとこたゆるよし村井古巌かたれり


「われから」というものは小エビのようであるという記述が、『袖中抄』にも見られる。 
越前,若狭,丹後(若狭湾まわり)周辺の方言では、「ありから」という。 
尺なぎ(シャコ)というものに似て約3cmくらいの赤いものである。 
ワカメの仲間の藻類につく。
ワカメを売る女性に「ありからが多く付いている」と指摘してみれば、「ありからを食べない上人はいないと言いますよ」と答えるのだと、村井古巌が語っていた。


 この村井古巌なる人物は元々は大阪の書物商で、莫大な蔵書をもつ知識家だったようです。各地を旅してこのような話を聞いたのでしょう。
 上人は仏教において際立って徳の高い僧侶のことなので、そんな人物でも海藻を食べればわれからを口にしてしまう、肉食を禁じる教えを破ってしまうという意味で、この世に絶対というものはない例として使われたりします。『瓦礫雑考』では本書を引用し、精進料理の解説に厚みをもたせています。
 『玉勝間』は、この諺を四日市から報告しています(後程詳述)。また『千蟲譜』では、能登の諺として輪池先生(屋代弘賢)が詳報を述べているとしていますが、どの書物を指すのかはよく分かりません。



『茅窗漫録』 天保4(1833)年
 『伊勢物語』の注釈として「われからはアメンボに似ている」という見解を示していますが、そのスケッチが完全にアメンボに寄っており、伊藤(1991)も大いにツッコんでいます。
 一方、「四國邊にハ此虫を藻と共に煮て酒肴ぞ充(アテ)食う甚ダ賞味なり」としており、ワレカラ食の貴重な記録となっています。

思いっきりアメンボ
(国立国会図書館デジタルコレクションより)。



『千蟲譜』 文化8(1811)年
 栗氏千蟲譜とも呼ばれる本書は、貝類説を取り上げて「コレモ一説ナリ」とした上で、「然レモ藻ニ棲虫ノ説穏当ナリトスベシ」として甲殻類説寄りの立場を示しつつ、地方によって指すものが違う可能性もを示唆しています。以下、国会図書館のデジタルアーカイブでは最も絵が綺麗と思われる、服部雪斎による写本から紹介します。

正体不明の「尾州のワレカラ」。細い甲殻類の姿を伝言ゲームしまくった結果かもしれない 
(国立国会図書館デジタルコレクションより)。

 
『佐州採集録』から引用したという「ワレカラ」の図(国立国会図書館デジタルコレクションより)。
「此物海中藻ニスム小虫ナリ 形水虱ニ似タリ 又小蝦ニモ似タリ 足多シ 水ヲ離レテ稍跳ルモノナリ」と書かれていることから、モクズヨコエビ類かもしれない。
モクズヨコエビ類は、佐渡からはモクズヨコエビHyale grandicornis,フタアシモクズParallorchestes ochotensis,フサゲモクズPtilohyale barbicornisが報告されている(Honma & Kitami, 1978)。


『千蟲譜』にはどこからどう見てもワレカラだろという図が、ナナフシとして登場している
 (国立国会図書館デジタルコレクションより)。


 ちなみに、『千蟲譜』について考察を試みているページもあります。予備知識がないのか、端脚類と等脚類に関する部分は悉く的外れな結論となっていますのでご注意ください。




『玉勝間』 寛政7(1795)~文化9(1812)年
 本居宣長の書いた随筆です。「われから、はまゆふ」のコーナーで四日市の漁師の証言を紹介するとともに、フィールドワークの重要性を説いています。

をしへ子なる、美濃ノ津乃芝原ノ春房が語りけるハ、
あるとき、三重ノ郡の四日市の浦の船人共の、おのがどち、はかなしごとゞもいひあへる中に、一人が、われからくはぬ僧もなやといふことを、口ずさびたるに、ふと耳とまりて、われからといふは、いかなるものぞととひしかば、
うちわらひてわれからをしらぬ人もありけり、海の藻の中にまじりて、もはら藻のさましたる虫也、海菜の中二まじりたるをば、さながら乾たるを、色も形も、わきがたければ、えしらで、ほうしも皆くふなりといふ、
なほときくに、春の末ごろとる、雑魚といふ、こまかなる魚の中にもまじりて、長さ多くは三寸四寸ばかり有て、色青く、まれには黄ばみたるも有て、藻のごとくに見えて、動く物ある、それ也とぞいひける とかたりき、
そもそも此物は、今もかく、たしかにてある物なるを、ものしり人たち、くさぐさの説有て、さだかならざるやうなるは、

たゞ書のうへにのみかかづらひて、そのまことの物のうへを、尋ぬることなきが故也、

 (本居宣長の)弟子である美濃出身の芝原春房は次のように語った。
”ある時、三重郡の四日市の浜辺の漁師たち同士がとりとめもなく話している中で、一人が「われから食わぬ僧もなや」と口ずさむのが耳にとまり、「われからというのは、どんなものだ」というと、笑い声がおこり「われからを知らない人もいるのか、海藻の中に混じって、海藻の形そのものをした虫のことだ。海苔の中に混じったまま干したものは、色も形も見分けられず、肉食を禁じられている法師も知らずに食べてしまうのだ。」 さらに聞くと、「春の終わりごろに採る雑魚という小魚にも混じっていて、長さは9~12cmくらいで、緑色をしていて、たまに黄色みを帯び、藻のように見えるが動くものがある、それのことだ。」と言う。
そもそもこのわれからは、今もこうして確かに存在するものだが、知識人が色々な説を主張しながらも確信を得ないのは、ただ書物ばかりを読んで、真相を尋ねることがないからだ。”


 この文章はなかなか辛口で、『本草約言』を元に「われから」と「巻貝」を対応させた貝原益軒らに対する批判ではないかと勘ぐってしまいます。

  『玉勝間』のように活き活きとした現場の声を伝える文書は少なく、むしろ当時は古い和歌に詠まれた生物が実在して、今なおその名を伝えている人々がいることにさえ考えが及ばない学者が多くいたのかもしれません。それとは対照的な、実地調査に重きを置く主張には確かな重みが感じられます。





分類学的研究


 幕末に日本の自然や文化を欧州に伝えたシーボルトは、ワレカラも採集しています。日本において分類学的な手法によってワレカラが扱われたのは、これが最初であるとされています。

 日本滞在中に得た標本を、動物学の権威であったデ・ハーンに提供し、これをタイプ標本として学名がつけられました。このオオワレカラCaprella kroeyeri De Haan, 1849は日本各地に生息するワレカラで、5cmを超えることもある大型種です。
 記録では採集時期は1823~1834年,採集者はシーボルトとビュルゲル(シーボルトの助手だったドイツ人)となっていますが、彼らの滞在期間からすると1828年か遅くとも1829年までの採集と考えられます。長崎で採ったものか、あるいは江戸を訪れる道中で得られたものかもしれません。
 ちなみにこのHeinrich Bürgerなる人物は植物の研究においては相当な有名人で、Bürgerというだけでこの人物を指すという、命名略記のいわば殿堂入りを果たしています。

 山口(1993)に標本の写真が載っていますが、かなりボロボロです。この6個体の乾燥標本が、今なおオランダ・ライデンの博物館に保管されているとのことです。

 また、日本の無脊椎動物の学名と和名を記録したシーボルトの草稿『Benennungen Japanischer Insekten』(日本産昆虫の名称)ではCaprella(属名)に「warekara」という和名が対応されているとのことです。シーボルトは漁村での聞き込みなども実施していたのでしょうか。興味深い資料です。




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俳諧

和歌をリカットして俳句に使うことは多いらしく、藤原直子の歌は俳句の世界にも影響を与えました。
 「われから」は秋の季語とされていますが、これは秋の鳴く虫との連想と考えられます。次のような句がありますが、夏井(2001, 2003)は「藻に住む虫の音に泣く」と「われから」を絶滅寸前季語であるとしています。



我からの音を鳴く風の浮藻かな
松宇



われからの鳴く藻をゆらす浦の風
松本可南


 個人的に、こちらの句はかなり秀逸だと思います。

われからの声と言ひ張る媼かな
辻田克巳



 また、現代でもネット上などで俳句を楽しむ人も多く、そういった中に「われから」を詠んだものも散見されます。

・「体句会」第50回「われから」 投句公開 結果発表
「どかていの俳句日記」(「一句一遊」はラジオ番組です)
松田ひろむ 1日10句



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「われから」の正体について(私見)



 藤原直子を引用した歌が数多く詠まれた中で、どの歌にも「海藻に住む小さい虫=われから」という記述しかなく、その姿かたちや動きに関する追加情報は全くみられません。


 岩下(2004)は『伊勢物語』の歌に注目し、実体験ではなく伝聞に基づいた「われから」が歌に詠まれている可能性を示唆しています。
 「宿るてふ」(宿るという)とあることから、「われから」が藻に住むことを自分で確かめたわけではなく、人から聞いたのだろう、ということです。


  鈴木(2012)も同様の立場をとっており、後世の見解に「ワレカラの姿かたちや動きが興味を引いた」とあることを疑問視しています。また、ブームの火付け役である藤原直子ですら、海に行って実際に生きた「われから」を採ったことはないのではないか、と述べています。そして、流通を経て乾燥した状態の「われから」が海藻と共に食卓に上ることがあれば、乾いて割れる様子は目にしたのではないかとも指摘しています。


 「われから」は俳句の世界において「藻に住んで鳴く虫」として詠まれることが多く、和歌よりもその傾向は強いかもしれません。夏井(2001)は『大歳時記』を引きつつ、「とらえ難い幻想的な虫」といっています。実物が何であるかよりも、「海藻の間で鳴く虫をわれからと呼ぶ」という一種の伝説が歌人や俳人に面白がられたのかもしれません。このような歌もあります。

はかなしや もにすむむしの なをかりて
なみたのしたに しつむわかみは

藤原範宗 『洞院摂政家百首』 貞永元(1232)年


 実際のところ、「われから」は藻の間に住む様々な小さな生き物の総称で、地域によって指すものが違っていた可能性があります。栗氏千蟲譜などは概ねそういった考えに基づいて書かれています。

 紅藻や緑藻につく小さな虫は非常に多岐にわたりますが、体がある程度硬いものと考えると、ワレカラ,ヨコエビのほか、等脚類(ヘラムシ,コツブムシ,ウミセミ等),稚ガニ,ウミグモ,フジツボ,微小貝などが考えられます。
 こうした候補の中から、江戸時代のスケッチの内容と一般的な生息密度などを加味して検討すると、やはり現在でいうワレカラが最有力と思われます 


 梶島(1997)は、「われから」の姿を正しく伝承してきたのは漁村であるとしており、『紀州分産物絵図』『熊野物産初志』では正確な図や解説がみられることを指摘しています。引用されている図をみると、確かに『紀州分産物絵図』のワレカラは、どうみても現在のワレカラです。


  ヨコエビ,等脚類,微小貝を「われから」と呼ぶ場面もあったのではないかと思われますが、これらの生物は海藻を引き揚げると脱落しやすく、ワレカラのほうが目につきやすいと思われます。


 伊藤(1990)は当時の佐渡島で「われから」という呼称と端脚類の各種の対応を試みるとともに、「われから食わぬ上人なし」との諺の認知状況についても報告しています。佐渡ではヨコエビ類を「よこのみ」と呼び、ワレカラ類は「ありから」と呼ぶほか、地域によって「あじから」ということもあるとのことです。
 この「よこのみ」は佐渡の方言というより日本におけるヨコエビの古称とすべきものと思われ、例えば藤田(1913)も淡水ヨコエビGammarus属に対してこの名称を用いています。
 現代に至って「われから」の意味が多少変容してきている可能性はありますが、少なくとも佐渡においては、江戸時代に随筆に書かれた「ありから=われから」は、今でいうワレカラ類ないしヨコエビ類であったと判断されます。


 一方、『玉勝間』の「晩春のわれから」はあまりにサイズが大きいため、目測を誤ったのか、あるいは寸ではなく分(寸の1/10)と言いたかったのかもしれません。また、乾燥して割れるという特性から離れて、海藻に似ていて10cm前後という部分だけで考えれば(緑色のものはそう見られない気もしますが)、例えばヨウジウオ科の魚類なども連想されるので、甲殻類ではないものが含まれていた可能性も考慮すべきかもしれません。







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近代


『われから』 明治29(1896)年
 樋口一葉晩年の中編小説、タイトルがズバリ「われから」です。明治期のお屋敷が舞台となっており、実在の人物をモデルとした作品とされています。「われから」のあらすじは以下のような感じです。

 <登場人物>
 お町 : 主人公。恭助の妻。26歳。母譲りの美人。
 金村恭助 : お町の夫。政治家。
 千葉 : 金村の元に下宿する書生。23歳くらい。そこそこイケメンだがイナタい。

 ある夜、お町は勉強家の千葉を励まそうと、火鉢に火を足し、羽織をかけ、菓子を差し入れする。
 まだお町が乳飲み子の頃、母は家を出ていた。父は大蔵省の下級役人だったが、人が変わって金の亡者のようになり、母の面影を宿すお町のことを疎ましそうにしながらも、男手一つで育ててくれた。そんな父もすでに亡くなっており、今はお町には身寄りがない。
 金村は職業柄もあって交友関係が幅広く、お町は言い表し難いみじめさを感じていた。結婚して10年経つが子宝には恵まれず、孤独に沈みがちであった。千葉は世話を焼いてくれたお町に恩義を感じており、使用人からお町の様子を聞くと、故郷にいた頃に想いを寄せていた幼馴染みの女性は、気持ちが沈むことが多く、床に臥せりとうとう死んでしまったと明かし、心配の色を隠せない。
 お町は亭主とのすれ違いを重ねるごとにヒステリーを起こし、倒れこむことが多くなる。そのたびに千葉が懸命に介抱をしていたところ、これを如何わしいものと考える者が現れ、噂が広がっていった。はじめはお町を案じていた恭助もやがて世間体の悪さに耐えきれず、千葉を故郷へ帰し、「理由あればこそ、人並ならぬ事ともなせ、一々の罪状いひ立んは憂かるべし、車の用意もなしてあり、唯のり移るばかり」と激しく責めたてて、お町を屋敷から追い出すのであった。

 これについて岩下(2004)は「主人公たちが帰る場所を失うというあらすじは、月の美しい夜に泳ぎ出てその間に蟹などに棲みかを奪われるという、ワレカラに関する越前若狭の伝承に基づくものであろう」としていますが、金村がお町を追い出すときの言いぐさがまさに「自業自得」と責め立てるような調子であり、これが「われから」を指しているとも思えます。
 また、相手のある身分の高い女性と若い男との関係が咎められて追放されるあたり、『伊勢物語』(六五段)を意識している可能性も考えられます。





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現代


 日常的にワレカラと触れる機会はほとんどないままですが、目立たない生き物の姿かたちを愛でるのが密かなブームになっていると思われ、実は水族館でワレカラが展示されたりもしています。



須磨水族館

 2015年、企画展として「海の怪物?ちょっと地味~なワレカラ」展を開き、関係各方面に衝撃を与えました。行きたかった…



八景島シーパラダイス

 同じく2015年、「ミクロモンスター」展の中でワレカラの生体展示を行い、デフォルメされたキャラクターが話題となりました。謎のフクロエビ上目推しの企画展で、生体コーナーではヨコエビも2科(スベヨコエビ科、テングヨコエビ科)ほど取りあげられました。





池袋サンシャインシティ水族館

 常設コーナーにおいて突然ワレカラの生体展示が始まったと話題となりました。




 海遊館

2016年5月、特別講座「海の小さな生き物“ワレカラ”大研究!」と題し、ワレカラの気鋭の研究者である阪口氏を招いた講演や粘土細工などのメニューで体験学習を行いました。




『われから かいそうにすむ ちいさないきもの』
 2010年に出版された絵本で、ワレカラの生態を題材としています。私家本であるため販路と数量が非常に限定的で、現在は入手不可状態です。閲覧できる施設があるかどうかも不明ですが、茨城県自然博物館にはもしかしたら置いてあるかもしれません。




 文化的な側面だけでなく、他分野でも活用されています。ワレカラは魚によく食べられることから、樹脂製のワレカラ形のルアーなどが市販されています。
ジャクソン ワレカラ






以上、まとめますと…


1.古今集の藤原直子の歌をきっかけに、ワレカラは和歌や俳句の題材として親しまれるようになった


2.平安時代から江戸時代にかけて、実物のワレカラを探し求めた歌人や学者はほとんどなく、名前だけが語られていた可能性が高い


3.各地の方言には確かにワレカラという生物名や諺が根付いており、生態などはおおむね歌の内容と一致するが、意味するものは多様なようであった


4.シーボルトのおかげでワレカラも分類学の土俵に載り、日本中から100種以上が報告されるに至ったが、和歌の時代と比べると知名度はいまひとつである


5.ワレカラはいいぞ


 …といった感じかと思います。


 1000年前にあれだけ芸術の題材となっていたワレカラ。そろそろどこぞのアーティストが歌ってくれないだろうかと思う今日この頃です。






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<参考文献>

- 伴蒿蹊 1801. 『閑田耕筆』. 巻3.
- 茅原定 1833. 『茅窗漫録』. 中巻.
- 藤田經信 1913. 節甲類 ARTHROSTRACA. In: 『日本水産動物學』. 裳華房, 東京.
- 樋口一葉 1896. われから. In: 『文芸倶楽部』. 第2巻, 第6篇.
- Honma, Y., T. Kitami 1978. Fauna and Flora in the Weters Ajacent to the Sado Marine Biological Station, Niigata University. Annual Report of Sado Marine Biological Station, Niigata University. 8: 7-81.
- Ito, A.,  H. Wada, M.N. Aoki 2008. Phylogenetic Analysis of Caprellid and Corophioid Amphipods (Crustacea) Based on the 18S rRNA Gene, With Special Emphasis on the Phylogenetic Position of Phtisicidae. Biol. Bull. 214: 176–183.
- 伊藤正一 1990. アリカラ食わぬ坊さんなし. 佐渡郷土文化, 62:42-44.
- 伊藤正一 1991. 茅窓漫録「ワレカラ」図について. 佐渡郷土文化, 67: 47.
- 岩下均 2004. 『虫曼荼羅 古典に見る日本人の心象』. 春風社, 神奈川. [ISBN-10-4861100046]
- 貝原益軒 1709. 『大和本草』. 巻14.
- 梶島孝雄 1997. 『資料 日本動物史』. 八坂書房, 東京. [ISBN4-89694-695-2]
- 神田玄泉 1741. 『日東魚譜』. 巻4.
- 喜多村節信 1817. 『瓦礫雜考』. 下巻.
- 栗本丹洲 1811. ワレカラ. In: 『千蟲譜』. 巻1. (duplicated by 服部雪齋)   
- Lowry, J.K., A.A. Myers 2013. A Phylogeny and Classification of the Senticaudata subord.nov.(Crustacea: Amphipoda). Zootaxa, 3610(1): 1–80.
- 源忠韶 1880. 『色葉和難集』. 巻3: p.96, 巻10: p.187.
- 武蔵石寿 1843. 『目八譜』. 巻11.
- 本居宣長 1801. 『玉勝間』. 巻12.
- 夏井いつき 2001. 『絶滅寸前季語辞典』. 東京堂出版, 東京. {ISBN4-490-10580-0]
- 夏井いつき 2003. 『続 絶滅寸前季語辞典』. 東京堂出版, 東京. [ISBN4-490-1063-1]
- 能因 published year is unknown, established about 1000 『能因歌枕』. 
- 鈴木健一 2012. 『鳥獣虫魚の文学史-日本古典の自然観4 魚の巻』. 三弥井書店, 東京. [ISBN978-4-8382-3231-4]
- 薛己 published year is unknown, maybe 1520-1550 (translated by 田原二左衛門 in 1600) 『本草約言』. 巻3.
- Takeuchi, I. 1999. Checklist and bibliography of the Caprellidae (Crustacea, Amphipoda) from Japanese waters. Otsuchi Marine Science, 24: 5-17.
- 山口隆男 (ed.) 1993. 『シーボルトと日本の博物学 甲殻類』. 日本甲殻類学会, 東京.



<参考Web>

-国際日本文化研究センター 和歌データベース