2025年3月3日月曜日

2025年のヨコエビギナーへ(文献紹介第十一弾)

 

  今年もヨコエビの知見を得るのに有用な文献を紹介します。過去の実績はこちらに掲載しています。 

 

<今年のイチオシ(1)>

樋渡武彦・森野浩・池澤広美 2024. 茨城県沿岸を含む日本産ナミノリソコエビ科Dogielinotidaeとモクズヨコエビ科Hyalidae (甲殻亜門・フクロエビ上目・端脚目)全種の分類と検索.茨城県自然博物館研究報告,(27): 89–105, pls. 1–22.

 日本から報告のあるナミノリソコエビ科とモクズヨコエビ科の全種(8属3亜属22種)をレビューした労作が出版されました。これまで樋渡先生含めて「スルーが吉」としていた亜属にも和名を与えるなど、一歩踏み出したというか、歩み寄った感があります。さすがに亜属体制が敷かれて20年以上経ちますから、知らんぷりもしにくいといったところでしょうか。ただし、どれだけ時が経とうが投稿済みの論文の質が上がるはずもなく、Bousfield and Hendrycks (2002) は相変わらず取り扱い注意の奇書なので、誰かが真正面から否定する日が来るまでは、引き続き批判的に見ていく必要があります。
 全種の線画と二又式検索表が完備されており、しかも無料でアクセスできる紀要への掲載ということで実用性が極めて高い仕様になっています。ヨコエビの和文総説は珍しいので、そういった意味でも非常に意義深い研究です。なお、これら2科の未記載種や未記録属はそこらへんに大量に眠っているものとみられ、載っていないものを見つけた方は速やかにお近くの Amphipodologist へお届けください。



<今年のイチオシ(2)>

Jamieson, A. J.; Weston, J. N. J. 2023. Amphipoda from depths exceeding 6,000 meters revisited 60 years on. Journal of Crustacean Biology, 43: 1–28.

 タイトル通り、過去60年におよぶ超深海ヨコエビ研究をレビューした決定的な論文が出てました。目録として優れているのは言うまでもなく、超深海ヨコエビの特性を様々な角度からピックアップした各項目も読みごたえがあります。無料というのもポイント高いです。



<メリタヨコエビ属 𝑀𝑒𝑙𝑖𝑡𝑎 の分類にオススメ(1)>

 このグループは地域により種分化を遂げている可能性が高く、未記載種がゴロゴロしていると考えられます。種内変異や地域変異の複雑さによって難しい分類群と捉えられてきましたが、近年は分子系統解析の進歩も手伝って種の輪郭が少しずつ解明されつつあります。そんなわけで、本邦既知種を同定する手がかりになり、かつ入手の難易度が低いものを挙げます。


 メリタヨコエビ科の重厚なレビューです。本邦のメリタヨコエビ属に関わる部分としては、太平洋北西部の10種について検索表と解説があります。古いながらも、環太平洋の他の種や隣接した属についても俯瞰的に把握できます。BHLから無料で読めますので便利な時代になりました。


 言わずもがな、パンダメリタヨコエビの記載論文です。メリタヨコエビ属本邦産17種が同定できる最新の検索表がついてオープンアクセスという大盤振る舞いです。


 ナガタメリタヨコエビ M. nagatai,ビンゴメリタヨコエビ M. bingoensis の新種記載と、フトメリタヨコエビ M. rylovae,カギメリタヨコエビ M. koreana の報告を行っています。京大のリポジトリから無料でアクセスできます。


— Yamato, S. 1988. Two species of the genus Melita (Crustacea: Amphipoda) from brackish waters in Japan. Publications of the Seto Marine Biological Laboratory33 (1/3): 79–95.
 ヒゲツノメリタヨコエビ M. setiflagella の新種記載と、シミズメリタヨコエビ M. shimizui の報告を行っています。この論文でシミズメリタの種内変異として挙げられている沖縄個体群(form 3)は、後に別種・オキナワメリタヨコエビ M. okinawaensis として記載されました(Tomikawa et al., 2022)。京大のリポジトリから無料でアクセスできます。


<参考文献>

Bousfield, E. L.; Hendrycks, E. A.  2002. The talitroidean amphipod family Hyalidae revised, with emphasis on the North Pacific Fauna: Systematics and distributional ecology. Amphipacifica, 3(3): 17–134.

 Tomikawa K.; Sasaki T.; Aoyagi M.; Nakano T. 2022. Taxonomy and phylogeny of the genus Melita (Crustacea: Amphipoda: Melitidae) from the West Pacific Islands, with descriptions of four new species. Zoologischer Anzeiger296: 141–160.




コラム:在野研究者は遺伝子を読めるか?

 

端脚類のα分類における遺伝子解析の実情

 

α分類とβ分類

 分類学の中には、個々の種を記述する局面(α分類)とそれらの関係を整理する局面(β分類)とがあります。いずれの局面も(少なくともヨコエビでは)形態情報に基づいて行われてきた経緯があります。

 ヨコエビのα分類は形態観察に主軸があり、遺伝情報しか使わない新種記載 (Esmaeili-Rineh et al., 2015) は極めて限られています。

 β分類も形態情報に基づく体系が優勢です。分子系統解析の結果が従来の知見と食い違っても分類体系への反映に至らないものが多く (Hiwatari et al., 2011; Copilaş-Ciocianua et al., 2019) 、分類体系に組み込まれたもの (Sotka et al., 2016) は少数です。

 分子系統解析の知見が分類へ反映されにくいのは、系統学と分類学とが異なる学問である点が重要と思います。分子情報を用いた系統学の論文群と、形態情報に基づく分類学の論文群は、それぞれ別方向の研究分野です。
 「分子-系統」「形態-分類」は対をなすものとして語られがちではあるものの、原義上はそうではありません。多様な姿をもつハトの品種の比較検討に勤しんだダーウィンの例を引くまでもなく、系統学も分類学も遺伝物質を材料とせず営まれてきた経緯があります。要するにどの手法が選ばれるかというだけなのです。実際、ヨコエビでも形態を用いた系統学的研究Barnard and Karaman, 1983; 上平, 1984; Bousfield and Shih, 1994)があります。系統学と分類学との違いを掘り下げるのは趣旨から外れるため、本稿ではあくまで分子・形態が採用されるポテンシャルに差は無いものと捉え、分子情報をα・β分類学へ適用する要点に絞って述べます。
 なお、本コラムでの「分子(生物学)」という語は遺伝物質のみならず酵素や色素,フェロモンの類も念頭に置いています。しかし、そういったものを系統学や分類学と結びつけた研究 (Drozdova et al., 2021) はとても少ないので、「遺伝子」と読み替えて頂いて構いません。

 ともかく現状は「ヨコエビのα・β分類では分子情報に形態情報が併用されている」といったところでしょうか。


なぜ分子は形態の顔色を窺わねばならないのか

 ヨコエビのようなマイナー分類群では、既存の形態分類の全体を見通すこともままならない状況なので、形態分類されたものを後から追いかけて塗り直す作業はかなり遅れているといえます。新しい手法がいかに有用でも、新たな分類群を仲間に加えながら従来の知見を置き換える作業が容易でないのは、想像に難くありません。
 これは、広く材料を集めるβ分類のみならず、限られた範囲で近縁種との比較を行うα分類においても同様です。分子情報に基づいて識別されうる単位(mOTU=molecular Operational Taxonomic Unit)が分類学的な種たり得ることを示すには、近縁種のどれとも違うことを確認する必要があります。しかし、分子情報が得られていない種とは比較できません。結局、過去に種の根拠を示した手法、即ち形態分類の土俵に乗らざるを得ないわけです。

 こういった理由から、ヨコエビのα分類は「分子はまだ本格的に運用できないから形態を使い続ける」という流れになりがちです。そして、分子のみでの記載が成立しにくい一方、形態のみの記載は普通に成立します。従来手法で事足りるため形態偏重の手法が否定されることはなく、従って分子情報を採用する動機につながらず、情報が集積しないので新手法の利便性も向上せず、形態だけで事足りる状況を延命する、といった循環に陥っているのが実情です。「多くの研究者に採用されるだけの有用性を持つには多くの研究者に採用されねばならない」という矛盾を抱えているともいえます。



端脚類のα分類における遺伝子解析の意義

別次元の客観性

 ヨコエビならではともいえる意義もあります。

 生殖隔離と結びついた形態形質が知られる分類群では、生殖器などの形態的(機械的)要素を使った種分化の仮説が導出できる可能性があります。更に分布情報を加えれば、より精度高く種の境界を指し示すことができるでしょう。こういった群には昆虫など陸棲の節足動物が知られ、近年では遺伝情報による裏付けも盛んです。個々の形態形質が生殖隔離を誘発する具体的な機構が解明されているとは限らず、mOTUが形態種と一致しない場合もあるようです。とはいえ、昆虫などのα分類において生殖器や副生殖器の形態形質が特に重視されてきた経緯を踏まえると、形態分類の通底に生物学的種概念の思想が流れていることは間違いないでしょう。

 一方ヨコエビにおいて、交尾前ガードに関わる部位の形状と生殖隔離との相関が示唆される例(Tomikawa et al., 2024)がないわけではありません。しかし、その交尾前ガード行動そのものが逃避の有無に基づく雌雄選別という極めて雑な機構であると指摘されていたり(Holmes, 1903)、種内で体格差のある個体が交接可能という報告があり鍵と鍵穴の関係が不透明になっていたり(草野・草野, 1989)、そもそも交尾前ガードを行わないヨコエビが相当な数に上るという点などから、今のところ十分な有用性をもつものではありません。
 つまり、ごく一部の種において形態情報から生殖隔離の可能性を推定するのが関の山で、それ以外の大多数は「形態形質の不連続性のみをもって間接的に生殖隔離が示唆される程度の、実質的な形態種」であり続けてきました。そして、生殖隔離を効果的に指し示す形質は簡単には見つからず、科の識別形質が後に種内多型と判明したり(Lörz et al., 2020)、後から種の分け過ぎが指摘された例もあります(富川・森野, 2012)
 これは、形態分類の手法が洗練されれば解決される類の問題ではないと思われます。知見が蓄積すればするほど、線画として記述すべき形態形質が増えているのが、その証左でしょう。学問の発展に伴って洗練されているようで、実は焦点が定まらず拡散し続けているのです。
 このような事態になった理由は、分類群の特性として形態観察から生殖隔離を合理的に推し量るのが無理筋だからと思っています。先に述べた通り、ヨコエビ自身が視覚情報や機械的要因で同族認知を行っているという仮説は立てにくく過去ブログも参照)、また体内受精を行う昆虫のような節足動物と、覆卵葉内で体外受精するヨコエビとでは、外骨格の物理的嵌合性が生殖隔離に与える影響が全く違うと言えます。そういった意味で、形態観察によって駆動される端脚類分類学は、系統学と交わらない「純粋な分類学」として、形態種の入れ物や近似種の束ね紐といった役割に徹してきたのであろうと思います。

 こういった、配偶に関わる物理的嵌合性が立証されていない有性生殖生物において、遺伝情報を用いた分類手法は、生殖隔離の傍証という文脈で形態観察の客観性とは段違いの成果を期待されることになります。これは既存の分類体系の精度を上げるというより、「形態種」が支配する世界に生物学的種概念を持ち込むという、革命的な出来事だと思います。もちろん、種分化を駆動する根源的な要素とはいえ遺伝物質の配列も表現形質の一つに過ぎず、「イデアルな種そのものであってほしい」という願望を投影すべきではありません。必ずしも生殖隔離に直結する配列が解析に用いられているわけではありませんし、分子時計の仮説に間違いがあれば系統学的に大きな見当違いを引き起こす可能性があります。


対立する概念ではない

 分子情報を用いた手法と形態情報を用いた手法は、網羅性と客観性において相克のような関係にあると思えますが、相補的とも解釈できます。

 α分類において、分子系統解析から導かれたmOTUに形態分類の視点から裏付けを与える、あるいは形態種とmOTUとの対応を確認する、といった方式であれば、合理性が高いと思います。実際のところ分子と形態の情報を併用している昨今の記載論文は、基本的にこのような構造にまとまっている印象です。


「よい種」の補強材として

 分類学で扱う「種」の本質は「よい種」という概念に帰着し、それは分類学者の合意に担保される、という思想があります(網谷, 2020)。「種」の定義を巡る議論は「分類学の最小単位たる種階級」と「記載された分類群としての種階級タクソン」とを区別せねば成り立たず、網谷 (2020) の主張はそうなっていない点で致命的な欠陥があるように思えます。とはいえ、少なくともα分類において新たに記載される種が「良い種階級タクソン」であることは非常に重要であり、それを担保する学界の合意に注意を払う、もっといえば学界の合意を「種」の本質と捉えるという思想に読み替えれば、非常に示唆深い視点だと思います。

 「形態種」の問題点を解決しうるとはいえ、生物学的種概念は「よい種」における一つの要素に過ぎません。だからこそα分類においては、分子情報と形態観察を併用するなど可能な限り多くの材料を用いて、その時点での「よい種」を目指すことが重要と思います。また、遺伝情報に基づく傍証が有用であるためには「遺伝的種」に基づいた「よい種」の合理性を示して、多くの分類学者の合意を引き寄せるのが道理です。これは一朝一夕には成し得ません。後世の研究を視野に入れて可能な限り配列情報を充実させることが必要と思います。

 生物学的種概念を突き詰めると飼育や交配実験をやろうぜという話になりますが、ご多分に漏れずヨコエビでそのような試みはほぼ論文化されていません。


 こういった背景から「新種記載には形態情報を完備した上で配列情報を紐づけしたい」と考えているわけですが、その実践過程で分かったことや思ったことを以下に述べていきます。



遺伝情報を用いた記載の流れの一例

  遺伝子をα分類に用いる場合、以下のような手順を踏むことになり、必要な機材や試薬もだいぶ複雑です。

  1. 標本から遺伝物質を抽出
  2. 抽出物を精製
  3. 任意のプライマーを添加
  4. PCRで目的の領域を増幅
  5. PCR産生物の確認・精製
  6. シーケンサーを用いて配列情報を得る
  7. 得られた配列情報を保存・出力
  8. 得られた配列情報に加えて、既知種の配列情報をデータベースから参照し、データセットを構築
  9. アライメントを行う
  10. 相同領域の類似度から遺伝的距離を算出
  11. 系統樹を出力

※これはサンプルや配列データそのものへの操作を列挙したもので、当然のことながらそれぞれの工程には別途試薬の調製や解析パラメータの設定など準備があったり、うまくいかなければ工程を戻して調整し直したりします。


 No.8~11はかつて別々のソフトでやっていたようですが、今日ではしぬほど便利なMEGAというフリーソフトが業界を席巻しており、新種記載に求められる程度の処理であれば全てお任せできると思います。

 諸種の配列情報は、自前のものを読み込ませるだけでなくGenBankから呼び出してデータセットに加えることができます。このGenBankは米国衛生研究所が構築しているものですが、3月に入ってから繋がりにくいとの報告があります。時間帯によりアクセス負荷が大きかったり、MEGA側にhttpの形式がうまく認識されず505のエラーコードを吐くことは稀にありましたが、今回はどうやらIPアドレスの識別そのものができないタイミングがあるようです。反知性主義者の陰謀という冗談みたいな噂が流れていますが、わりと本当っぽいのが笑えません。

 GenBankはデータを引っ張るだけでなく、新種記載に紐づけしたい配列情報を共有する場でもありました。なお同じデータ群を別途公開している日本版プラットフォームとしてDDBJがありますが、折しも休止期間中らしいです。もう一つ、欧州には「甲殻類研究者なら黙って」感が漂うEBIENA)があるものの、GenBankの利便性は捨てがたいです。

 なお、日本において朝方にGenBankのアクセス負荷が高い印象があったのは、アメリカの職業研究者が定時の時間帯に頻繁に使用しているからと思われます。昼から夜にかけて接続したほうがストレスが少ないかもしれません。EBIなら逆に朝から夕方までのほうが良さそうです。



課題


閾値設定という壁

 ヨコエビにおいて3–4%の遺伝的差異が種の閾値とされています (Rock et al., 2007; Witt et al., 2008; Hou et al., 2009; Tomikawa et al., 2018) が、海産種で一定の閾値を決められないという説もあります (Tempestini et al., 2018)。再生産や移動など生理生態様式の違いによって適正な閾値が大きく変わってくることは想像がつくものの、「X%の違いを科とするか種とするか」みたいな分類階級の定義に関わるほどの見解の相違があります。そもそも配列情報が得られていない連中は蚊帳の外ですし、控えめにいって混乱しています。

 分子情報を使ったα分類を「桁違いの客観性」などと述べましたが、閾値が定まっていないどころか決められるかも分からない有様では、客観性も説得力もあったものではありません。

 形態と分子を併用して「よい種」を追究する利点は、種の閾値を求める場面、つまり「種階級タクソン」の合理性を高めるだけではなく「種階級」の定義を行う場面でも発揮されると思います。例えば、形態的な証拠に基づいて合意が得られている既知種同士で遺伝的距離を求めておき、その値をもとに新種として記載されうる閾値を模索すればよいのです。形態情報より定量性を期待しやすいとはいえ分子情報に基づく分類も結局は自然界に存在する類似度の階層構造に意味を与える営みでしかないため、どこに種階級の線を引くかというは判断軸は内から自然に湧いてくるものではありません。何度もフィードバックを繰り返す覚悟は必要でしょうが、意義は大きいと思います。


網羅性という壁

 分子情報の網羅性は、「遺伝情報が読まれた種」と「個々の種における配列領域」という2つの側面があると思います。

 遺伝情報のデータベースでは、登録されている配列情報の中にも長短や解析対象箇所のズレがあり、同じ領域を比較するためには最大公約数をとることになります。形態分類に例えると「どの既知種の記載もどこかしら付属肢が欠けていて、仮に手持ちの標本の状態が良くても比較できる部分が自ずと少なくなってしまう」状態です(これはあながち喩え話でもなくて、実際に古い記載図には口器の描画がなかったり、そもそも簡単な判別文のみが添えられていて図がない場合もあります)

 形態分類の発展とともに全身の形態形質を記述するようになった歴史の再現よろしく、分子系統解析の手法が洗練されるにつれてより長い配列が得られたり有用な領域が発見されたりするわけですが、現時点で限定的な配列しか登録されていないことも多々あります。そういった場合、配列が取得されていない部分は、参照できる情報がないという点では分子系統解析が未導入の状態で記載された種と差がありません。また、配列情報だけの存在としてデータベースに格納されている近縁種は、形態情報を参照できないぶんむしろその同定の信憑性を傍証できず、更に配列情報が限定的となるとその価値は大きく下がることになります。
 さらに、配列の長さや使用する領域によってサンプル同士の類似度は変わってくるので、短い配列情報を無理やり使うことで間違った結果を導きかねないという問題もあります。系統分類学的な仮説を強化するために遺伝情報を用いるのに、これでは本末転倒です。もちろん、いかなる材料も完璧に正しいということはないわけですが、遺伝子解析の利点を十分に引き出せる体制でないという事実は重いと思います。全ゲノム解析が当たり前になれば万事解決ですが、配列情報の取得と解析の障壁は格段に上がり、現時点では確実にある意味での有用性を損なうことになるでしょう。

 配列が不完全なら、後から補うことも考えられます。形態分類でいえば「博物館に保管されているタイプ標本を見せてもらって再記載を行う」といった場面です。

 しかし、分子系統解析に供される標本は往々にしてその所在が管理されていません。分子の解析は破壊法であり、例えば標本から取り出した遺伝物質はシーケンサにかけて配列を読んでしまえば廃棄物になるので当然といえば当然ですが、問題はその抽出に供した残りの部分です。これはいくらでも残す方法があります。ヨコエビにおいてはプロテアーゼへの浸漬時間を調整することで外骨格を残すことができ、これは非破壊の形態観察に回せます。そもそも形態分類において重要な口器などの構造は碌に遺伝物質を含んでいないので、こういった部位へ手を付けずに必要最低限の筋肉組織を分析すればいいだけの話です。実物を軽視する傾向は、形態観察を念頭に築かれてきたα分類システムとは雲泥の差で、(過去の記載にはどうしても実物が残っていないことが多々ありますが)国際動物命名規約においては後世の研究者がタイプ標本を参照できることを担保する重要性が明文化されています。「分子を用いた手法は客観性が高く、形態を用いた手法は主観寄り」ということで「分子のほうが科学的」みたいな雰囲気で話を進めてきましたが、研究文化においてはこれが逆転し、むしろ形態分類のほうが検証可能性を重んじる文化や仕組みを具えている感があります。また、非破壊の形態観察とは異なり分子は分析すればするほど損耗していきますし、この後に述べる通り、現時点では形態情報よりも分子情報のほうが経時劣化で使い物にならなくなる危険が大きいのです。



分子構造の時限爆弾という壁

 動物分類学の原則の1つに「唯一無二のホロタイプ標本が全ての基本」というものがあり、剥製や液浸標本,樹脂封入標本などあらゆる工夫によってそれを達成しようとする数百年にわたる分類学者の努力は、ある意味では形態分類との食い合わせの良さによって駆動されてきた部分もあるといえます。そういった文脈の中で、前述の通りタイプ標本を後世へ伝える配慮に言及した国際動物命名規約が成立したものと考えられます。

 しかしながら、分子はどうでしょう。

 遺伝物質の構造は外部形態のそれより遥かに脆弱です。
 「実物さえ残しておけば」という理念があらゆる問題へ解決策を与え、分類体系の安定化に寄与してきたことに疑いの余地はありませんが、分子情報の解析は比較的新しい技術であることやパッと見で分からないことも手伝って、「恒久的な実物の保存」に対して明確な答えが出ていないように思えます。乾燥,液浸など様々な標本が何世紀か形態を保持できることはわかっています。しかし、形態分類分野において歴史のあるプレパラート標本ですらこういった有様で、その主因が「包埋する化学物質の安定性や堅牢性」であることからも、分子構造を保持する難しさがわかります。脊椎動物では Saitta et al. (2024) といった研究もあるようですが、昆虫の乾燥標本においてマイクロサテライト法が有効な期間は半世紀に満たないといい、標本に含まれる遺伝情報を何世紀も保存する技術は確立されているとはいえません。

 となると、既存の分類学が要求する検証可能性に忠実であろうとするならば、記載論文にタイプ標本の配列を紐づけするのが、最も現実的な答えではないでしょうか。もちろん、遺伝情報のデータバンクが未来永劫稼働するとは思えませんし、オンラインに存在する論文についても同じです。しかし、多少屁理屈をこねるとすれば、既知種の学名が使われ続ける状態は論文へのアクセサビリティが担保されている状態と言い換えることができるでしょうし、記載論文に記されたタイプ標本のアセンション番号と同列に配列情報を残すことは、実物の中で漸減していく核酸分子配列の残存に期待するより、遥かに堅牢性が高いと言えるのではないでしょうか。前述のような人為災害がないことと、インターネット回線やサーバーといった社会基盤が博物館の標本庫なみの寿命をもっている前提ではありますが。



ABS(Access and Benefit-Sharing)という壁

 遺伝情報を取り扱う場面で、国をまたぐ場合は全く別の注意が必要です。

 遺伝子資源の利益配分に関する「名古屋議定書」という国際的な取り決めがあり、国の間の遺伝子資源のやりとりには本来制約があります。これは遺伝子抽出の準備がされた標本や配列情報そのものの頒布というより、遺伝子資源を取得可能な生物体全般が対象となります。原則的に遺伝子資源のやりとりは当事国の研究機関同士で、書類の取り交わし等を進めていきます。
 東南アジアなどで採取された標本はかなり厳しい場合があるようで、論文の公表にも関わります(菊池ほか,2021)。まかり間違えば研究成果がお蔵入りということにもなりかねません。
 日本は海外研究者に対して特別な規制を設けない方針のようで過去記事も参照、国立公園や他人の敷地内における採集などには注意喚起を行っていますが、これは国内での扱いにおいても、そして遺伝子資源のみならず研究活動全般に当てはまるものでしょう。しかし「互いにABS(取得機会および利益の公平分配)に準拠していることの確認」などを行うMAT(Mutually agreed terms:移動同意書)を用意するといった対応が求められるようです。

 「片方が個人研究の場合は研究室間の移動じゃないからMATは不要」という見解もあるようで、ここにきて在野研究者の強みが発見されるのも面白いですが、実際のところ全ての場合にこれが適用できるかわかりません。最低限の下調べと相手方への問い合わせは必要と思います。



学部卒在野研究者の壁

 これまでは手法への愚痴でしたが、ここからは自分自身の問題です。全ての学部卒在野研究者には当てはまらないと思っていますが、個人的な状況を具体例として挙げておきます。

 一つは個人の力量。PCRと電気泳動で遺伝物質を見る実習は学部時代に経験済でしたが、当然のことながら御膳立てされた状態で、必要な工程のごく一部に過ぎませんでした。つまり、自力で計画を立てて遂行する能力はないのです。記載論文は読みまくってますが、マテメソだけ読んでも全ての操作や資機材はわかりません。

 もう一つは資材。金額面で二大巨頭といえるのは「PCR装置」「シーケンサー」でしょう。PCR装置は某疫病の影響で腐るほど市場投入され終息後はダブついているという噂ですが、それでも本来は平気で100万とか200万はする代物です。シーケンサーともなれば簡易的なものでも200万程度、グレードによっては一千万を超えてくるらしいです。そんな設備を自前で揃えてるなら検査会社を起業した方がよいでしょう。そしてこちらがその扱いに熟達していないという問題。ある程度慣れていれば最低限目的に沿った中古品なんかを効率的に集めたりできそうなものですが、自信はありません。そして、各種試薬。アズ●ンのIDすら振り出しできない一般人に、試薬の購入や廃棄の道筋を構築できるのか?

 というわけで、外注待ったなしですが、これにも大きな問題が。シーケンシングを受け付けている会社は基本的に、精製済みDNAサンプルをプライマーと混合した状態を要求してきます。前述のNo.1~3(DNAをヨコエビから取り出し、精製し、プライマーと混ぜる工程)はこちらで担当せねばならないわけです。結局DNAラボの開設は不可避と。

 前述の通り、配列情報さえ得られればその先No.8~11はフリーソフトにおまかせできそうです。しかし、記載にあたって配列情報の添付にこだわるかぎり、抽出からシーケンシング(No.1~7)をまるごとお願いできる共著者が捕獲されるまで出版できないわけです。



在野研究者が遺伝子を読むということ

  • 潤沢な資金と知識があればDNAラボを設立する(500万~)
  • 少しの金と知識があればPCRからシークエンシングまで外注する(数万?/種)
  • 共同研究者を捕獲する

 50万~100万円程度の投資で顕微鏡と描画装置を用意すれば、在野研究者でも形態だけは十二分に観察・記述できます。しかも、描画に使う筆記用具などの消耗品やスキャナーなどは一般的な事務用品です。個人的に外注したことはありませんが、過去の論文において著者本人が線画を書かない事例もあり (J. L. Barnard, 1967)、最近でも筆頭著者以外が線画を担当した事例があるそうです。線画の役割分担が一般化して、例えばサイエンスイラストレーターが普及すれば形態分類も外注化の流れになると思いますが、今のところは自炊が一般的です。

 ちなみに、電子顕微鏡写真を添えたほうが親切という分類群もありますが、SEMがないと分類形質の観察や記述ができないという状況ではありません(個人で購入・設置できる可能性のある卓上SEMはそう多くないが500万円前後らしい)
 というわけで、形態観察と比較すると、個人でラボを立ち上げて行う遺伝子解析は初期投資がえげつないのと、その後の運用も試薬の調達や管理などが既に茨の道です。かなり現実離れしているので、やはりサンプル調製からシークエンシングまでを頼める共著者を捕獲するのが吉でしょう。

 遺伝情報を扱う困難さを強調する結論になりましたが「それでも遺伝子を読むべきか」というと、個人的には「YES」です。「よい種」を記載するために形態と分子は相補的に運用されるのが望ましく、また今目の前の記載論文においてそれほど役に立たなくとも、紐づけさえしておけば後世の学問の基盤となる可能性があります。これは新種記載やβ分類学的研究のみならず、環境DNA分野での活用なども含まれます。

 しかし、単に分子を分析すればいいというわけではなく、なるべく既知種との比較に有用な遺伝領域を選ぶことや、後から追加の配列や形態などの情報を得られるよう標本と紐づける工夫が必要だと思います。記載論文においてはホロタイプそのものの解析を行うのが最良ですが、最悪パラタイプでもいいから検証可能性の担保を疎かにしないこと、再記載でも積極的に標本を残すなどの文化の醸成が不可欠と思います。

 ここまでα分類の話ばかりしてきましたが、β分類はむしろ在野研究者に優しい時代になったといえるかもしれません。
 回線に繋がったパソコンさえあれば大量の配列データを個人で入手・解析でき、armchair taxonomy が捗るようになった感はあります。従来も「独り親方で形態フェノグラム解析」みたいなβ分類の手法はありました。しかし最初に述べたように、ヨコエビにおいて分子情報は形態情報とは異次元の説得力を持ち得ます。在野の個人研究者という身分では猶更、独りで形態の選択や重みづけを行う解析よりも、だいぶ客観性を担保しやすい側面があるのではないでしょうか。また、IOTの発達により処理できる情報量は桁違いになっています。配列やモデル選択のセンスに全振りした在野研究というのが、これから流行ったりするかもしれません。


<参考文献> *上記おすすめ文献で掲出したものを除く

網谷 祐一 2020.『種を語ること、定義すること 種問題の科学哲学』.株式会社勁草書房,東京.264pp.

Barnard, J. L. 1967. New and old dogielinotid marine Amphipoda. Crustaceana, 13(3): 281–291.

Barnard, J. L.; Karaman, G. S. 1983. Australia as a major evolutionary centre for Amphipoda (Crustacea). Australian Museum Memoir, 18: 45–61.

Bousfield, E. L.; Shih C.-T. 1994. The phyletic classification of amphipod crustaceans: problems in resolution. Amphipacifica, 1(3): 76–134.

Copilaş-Ciocianu, D.; Borko, Š.; Fišer, C. 2019. The late blooming amphipods: Global change promoted post-Jurassic ecological radiation despite Palaeozoic origin. Molecular Phylogenetics and Evolution, 143: 106664.

Drozdova, P.; Alena Kizenko, A.; Saranchina, A.; Gurkov, A.; Firulyova, M.; Govorukhina, E.; Timofeyev, M. 2021. The diversity of opsins in Lake Baikal amphipods (Amphipoda: Gammaridae). BMC Ecology and Evolution, 21, 81: 15 pp.

Esmaeili-Rineh, S.; Sari, A.; Delić, T.; Moškrič, A.; Fišer, C. 2015. Molecular phylogeny of the subterranean genus Niphargus (Crustacea: Amphipoda) in the Middle East: a comparison with European Niphargids. Zoological Journal of the Linnean Society, 175(4): 812–826.

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